今日は、前回の内容にいただいたBママさんのコメントから。
>この「気づき」は難しいですね。ともすれば「誘導して」しまいます。
>自由にさせることと、放っておくことの違いのようですね。
大切なポイントをありがとうございます。
そう、子どもとの関わりの中には、行動は同じように見えても意識によって、その質は正反対というものがたくさんあるんですよね。
今日はそのことについて書こうと思います。
提案と誘導
前回のような「きっかけ」というのは、Bママさんのおっしゃる通り、提案にも誘導にもなるものだと思います。
ではその違いは何かというと、それは
「相手(子ども)の判断を本当に信用しているかどうか」という、子どもに対しての意識の違いではないでしょうか。
提案は、きっかけに対して子どもが乗るか反るか、子どもの判断とその理由に重きをおいています。
だから、子どもが乗っても・反っても、どちらであっても、その判断を尊重し、それに対する気持ちや理由が見えてきます。
「子どもの判断を信じる」というのは、「やる」ことを信じるという意味ではなく、「やる」「やらない」を自分で決められるという意味です。
一方で誘導は、自分が子どもをのせることができたか、できなかったか、子どもの行動と結果に注目しています。注目しているのは自分の誘導の成否と子どもの結果ですから、当然子どもの判断の理由や気持ちは見えてきません。
子ども達は一見やっているように見えても、それは乗せられているからでかあって、自分で判断はしていません。
強い言い方かもしれませんが、誘導というのは、子どもの判断する力を信じていないということともいえるような気がします。
提案と誘導の違いの見抜き方は、子どもがやらなかったときの大人の反応・雰囲気を見るとよくわかります。
やらなかったときに、その子どもの判断が尊重され、そのあとも穏やかな時間が流れていくなら、それは提案。
一方、やらなかったことを責められたり、直接は責められないにしろ、やらなかったことで居心地悪い空気が生まれるのは、誘導です。
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教育、保育の現場をみていると、この誘導が氾濫しているように思います。
なぜか。
それは目に見える結果ばかりにとらわれているから。
結果だけをみるならば、誘導の方が子ども達はよりスムースに動くでしょう。
だからついつい誘導しようとする大人は多いし、そういう人が優れた保育士、教員と思われやすいものです。しかし、子どもの育ちを目先の結果ではなく、10年20年という広い視野でみたら、それはもったいないことだと思います。
なぜなら。
大人になったら、誰だって、いつだって自分の判断を迫られます。
その時、判断に対する自信(うまくいっても失敗しても、その自分に納得する、受け入れるという意味)の土台の一番下にくるのは何かと言ったら、子ども時代の判断に対する成功や失敗、葛藤や試行錯誤といったプロセスの経験値でしょう。
誘導は、そういう子ども自身の判断の機会を奪ってしまう面もあるのです。
子ども時代の、「目に見える結果」と「目に見えない経験」の質の違い、重さというのを、あらためて整理していくことが大切なように思います。
(余談ですが、保育園や幼稚園、学校などを見る時には、そこにいる保育士や教員が、提案者か、誘導者か、よく見てみてください。
また僕のような、造形遊びや歌遊びなど実践、講師をしている人のこともよく見てみてください。
提案者タイプと、誘導者タイプがいます。
僕は、教育や保育に対する大人の関わりは、提案者であることが大切だと思っています。)
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Bママさんがおっしゃった、
親としての欲求を手放すというのも、いいかえれば「信じる」ということのように思います。
どんなことができようができまいが、
それを周りに評価されようがされまいが、
関係なく
ありのままの自分を底なしに信じてくれる親や、誰かの存在があるということは、
勉強ができる、運動ができる、絵が上手い、リーダーシップがとれる、どんなことができることよりも、自信の核を作るように思います。
わが子の目先の行動と結果にとらわれることなく、
10年後、20年後に、魅力的な大人に育っていくことを信じて、
じっくりじっくり育ちを見守っていっていただけたらと思います(*^^*)