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DONUT WORKSHOP REPORT

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カテゴリ:コラム・エッセイ( 72 )

「子どもの気持ちに寄り添うママ」

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さて今回は、千葉県にあるマーブルさんでのワークショップの出会いから報告したいと思います。

こちらでは11人の子ども達と絵を描いて遊びました。
絵の具で海の世界を描くことからはじまって、そのあとはその絵を舞台に、画用紙を使ってペープサートづくり、ごっこ遊びという、あっという間の二時間でした。
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その中から最年少のリーちゃん(2歳半ちょっと。年明けに3歳)のお話です。
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彼女は、ワークショップの間とても集中していました。
絵の具で描くだけでなく、はさみを使って紙もどんどん切っていきます。
さらに、その日の道具にのりは出していなかったのですが、
部屋全体を見渡して僕の道具箱にのりがあるのを発見したりーちゃんは、自分で取り出し、のりも自在に使っていました。

そんなリーちゃんが、はじまる前の自己紹介ではちょっぴり不機嫌そうな顔をしていました。そのことをワークショップ終了後、スタッフさんや何人かのママさんと話していたら、りーちゃんのママが言いました。

「うちの子は、本当は自分のことを4歳って言いたいんだと思う。」

聞けば、お姉ちゃんもいるし、普段ここで一緒に遊んでいるお友達はみんな年上なこともあって、自分の年齢を言うことに悔しさを感じている。
というのです。

2歳半のりーちゃんが持っている自尊心。

その気持ちに気づき、寄り添うママ。
その気持ちを共有しあえるスタッフさん達。

りーちゃんが積極的に制作する姿の背景には、
日常でママや周囲の大人たちの、りーちゃんの気持ちを子ども扱いせず、真剣に寄り添おうとする姿も見えてくるのでした。


子ども達と関わる大人が
2歳半の等身大の気持ちを、
上から目線で、小さな子どものかわいい気持ちととるのか、
対等に、一人の人間の成長したい気持ちととるのか、

それによって、子ども達が自ら成長したいと思う心は
素直にも、天邪鬼にもなるように思います。

そんなことを考えると、
「子どもの気持ちに寄り添う」という言葉をあらためて整理したくなりました。

子どもの気持ちに寄り添う。

それは、子どもの姿や行動を「かわいいなぁ。」という感覚で、容認することではありません。
自分なりにその子の立場、その子の気持ちを想像しながら、また自分自身と照らし合わせながら、
「嬉しい」って思えたり、「悲しい」って思えたり、「変だぞ」って思えたり、「悔しい」って思えたり。
そんな風に気持ちをくみ取りながら、見つめること。それが寄り添うです。

一見すれば、子どもの気持ちや行動を受けとめているように見える姿でも、
「かわいいor幼い子どものすることだから」と見るのと、
「等身大で、成長しようとしていることだから」と向き合うことでは、
その質は全然違うのでしょう。

マーブルさんとの出会いを通して、
僕自身もあらためて、もっともっと真摯に向き合っていきたいと思いました。

みはるさん、マツイさん、子どもたち、ママたち、みなさんありがとうございました。

また遊びましょう(*^^*)
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by doughnut-official | 2013-10-14 18:47 | コラム・エッセイ | Comments(3)

「子ども達が学ぶ場所の形」

今年度は、越谷市内のフリースクールりんごの木さんにて通年、外部講師として呼んでいただいています。
今日は、そこでの先週のワークショップの場面から、小学生の女の子のお話です。
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制作をしながら、家族のことや自分が好きなことなど、色々な話をする中で、彼女が何気なく言った一言が、僕の頭の中にずっと残っています。

(ふだん、子ども達が作品を作ることに没頭しているときは、雑談などしないのですが。今回、彼女が僕のワークショップにじっくりと最初から参加するのははじめてのことでして。彼女自身が、まだこの空間で表現することに少し警戒している感じがありました。
そこでまずは、この場所でありのままを表現することを安心してもらえるように、信頼関係を作っていけたらと思って、おしゃべりをしていました。)

彼女が「絵を描くのが好き。」という話をしているとき、
ぽつりと言いました。

「絵を描くの好きだけど、いいの描けても家族しかみせる人がいないから。」

自分のお気に入りの絵が描けたら、
自分自身が嬉しくなるのはもちろんのことですが。
他の誰かに見てもらいたいし、それで「素敵!」っていってもらいたい。
それって当然のことだと思います。

彼女はそんな気持ちをおそらくいっぱい持っているんです。
でも彼女には、そんな風に自分の作品を見せられる人がほとんどいない。
そんな場所がほとんどない。
そして、そのことを彼女は彼女なりにちゃんと自覚していて、葛藤を持っているのでした。

僕は言いました。

「俺、描いた絵見せてもらうの大好きだよ。よかったら今度もってきて。」

「うん!」

こんなやりとりで、そのときの話はおわりました。
最後には、自分の中で気に入った作品ができたようで、嬉しそうにしていましたよ。

**********

「絵を描くのは好きだけど、いいの描けても家族しかみせる人がいないから。」

この一言には今の子どもの育つ環境を考える上で、かなり大切なポイントが映し出されているのではないかと思います。

僕は今の学校教育の在り方がどうこうという話をするつもりはありません。
でも学校に行かないことで、
その子が自分の大好きを伸ばせたり、自分の魅力を実感できる学び・育ちの機会がなくなってしまうというのは、おかしなことだと思います。

学校教育の良し悪しを問いているのではなく。
ただ、日本で現在主として行われている学校教育というのは、あくまでも一つの形であって、それ以外の学び方や学びの場所はあっていい。
子ども達の受け皿、子ども達が育つ場所は、もっともっとあっていい。
僕はそんな風に思います。

************

「今日、楽しかったよ。」

帰り際に彼女は、わざわざ僕にいいにきてくれました。
「ありがとう。」と言ってくれようとしたのだと思います。

こちらこそ、とても楽しかったです。
ありがとう。

そして、こんな風にのんびりと関わる時間を大切にしてくださるりんごの木さん、ありがとうございます。
また次回もよろしくお願いします(*^^*)
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by doughnut-official | 2013-10-01 23:19 | コラム・エッセイ | Comments(2)

「雨の日の約束」

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こんにちは!
朝夕は少しずつ秋らしくなってきましたね。

更新があいてしまいましたが、夏の仕事もやっとひと段落。また皆さんに報告していこうと思います。

今回は、毎月させていただいている、ショッピングモールでのワークショップにて。
嬉しくも、さみしく、素敵な出来事があったのでその話を紹介したいと思います。

商業施設という、普段の現場とはすこし異質な場所であっても、毎月やらせていただいていると、参加者さんの中にはこれを楽しみにきてくれるという人も少しずつ増えていき、関係が生まれていきます。
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その中でも、とくに一番付き合いが長いのが、A君でした。
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彼は二年以上前から毎回ずっと、このワークショップにきてくれていて、時にはお客さんなのに「ひでちゃん、準備手伝おうか?」と気づかってくれたり、僕が準備で忙しくお昼ご飯を食べれなかったときには差し入れをくれたりということもありました。
僕に
「ショッピングモールのイベントは、ただの工作イベントなんかじゃないぞっ。
ここはもっともっと可能性がある場所なんだよ。」
と教えてくれた人です。
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そんな彼が先月のワークショップにきてなかったので、どうしたかなぁと思っていたら、今回は来てくれました。
「ひでちゃん!」
声を聞いて、振り返ると、心なしかいつもより少し元気のなさそあな彼がいました。

でもまぁ気のせいかな、なんておもいながら、「先月はいなかったからさみしかったよ。今日もいっぱい作ろうぜ!」と言って、ワークショップをはじめました。

そうしてワークショップ終了後、
いつもなら「また来月ね!バイバーイ!」ニコニコしながら帰るAくんが、真面目な顔で僕を呼び止めました。

「ひでちゃん。」

なんだろうと思っていると、お母さんがA君の背中を優しくおしました。
「ほら、自分で伝えなきゃ。」

一呼吸あって、A君。

「僕ね、野球はじめたんだ。
だから、これからは雨の日しかこれないんだ。
でも、雨のときはくるからね。
今までありがとう。」

先月会えなかったのは、そういうことだったのかと納得しながら、彼が自分の新たな楽しみ、目標を見つけたんだなと思うとすごく嬉しくなりました。
同時に、もう会えないのかと思うと、一気にさみしさもやってきて。
まさかこの場所でこんなにさみしい気持ちを味わうなんて思ってもいませんでした。

でも彼の新たなスタートに、さみしい顔なんてしてる場合ではありません。

僕は、ちょっとお腹に力をいれて答えました。

「そっか。さみしくなるけど、おめでとう!
野球、がんばってね!これからは、雨の日が楽しみになるよ。」

そしたらA君もにっこりわらって一言。

「僕も。」

最後はお父さんとお母さんと三人ならんで丁寧に挨拶をしてくださいました。

出会いがあって、
変化があって、
別れがくる。
それは、とてもさみしいけど、とても素敵なことだと思います。

そして、それは、どこにいても、どんな形でも、生まれるし。
そんな風に人は出会える。

Aくんは、僕に教えつづけてくれました。
Aくん、本当にありがとう。
またやろうね。

野球チームのみんなには悪いけどお願いしちゃおう。
ワークショップの日は、時々でいいから雨が降ってくれますように。
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by doughnut-official | 2013-09-16 08:32 | コラム・エッセイ | Comments(0)

「生まれた時から持っている誠実さ」

みなさんこんにちは!
いよいよ夏休みも終わりが近づいていますね。
宿題に追われている人も多いことと思います。笑

さて、今回のリポートは先日、以前にここでも紹介したことのある友人たちと、一年半ぶりに再会をしてきましたのでそのことについて書こうと思います。

僕らが出会ったのは、もう7年前のこと。
当時小学校1年生、2年生でワークショップに参加していた彼たち、彼女たちも、今や14歳。
背はとってものびたし、身体つきや骨格もしっかり、顔つきもかなり大人っぽくなってきました。

中でも特に印象深かったのは、目。

お互いの近況をおしゃべりして、冗談をいったり、ふざけたり、屈託のない顔で笑うところも変わらずなのですが、
時折ふと見せる表情は、心地よい緊張感をもっていました。
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そういう大人びた表情に嬉しく驚きながらも、
もっと驚いたのは、というか「やっぱり!」と思ったのは、
その目を僕は昔から知っているということでした。

ワークショップに参加していた当時。
どんなものを作ろうかと考えている時や筆で絵を描いている時、自分の作品を語る時に、彼らは今と同じ目をしていました。7歳の時も、10歳の時も。
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変わったのだけれど、変わっていない、目の前のことに対する誠実な姿勢。
今、みんなは14歳、15歳という今を真剣に生きているんだと思いました。

そんな姿を見ていると、実感させてもらいます。
ワークショップでは、1歳くらいから何十歳まで幅広い年齢の人たちに出会うけれど、
魅力的な人たちは、この目の素敵な緊張感をみんな共通して持っているということ。
子どもも大人も関係なく、1歳も60歳も関係なく持っている。
生きることに対する誠実さ。

「来年まで、お互いがんばりましょう!またね!」

いつからか、会のしめではこんな挨拶をするようになりました。

僕は29歳(といっても来月30歳)をしっかりやるし、
集まったみんなも、14歳は14歳を、15歳は15歳をしっかりやる。
そうしてまた会う。
それがなんとも気持ちの良い関係です。

今年もありがとう!
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by doughnut-official | 2013-08-24 11:28 | コラム・エッセイ | Comments(0)

「大人目線の時間感覚 子ども目線の時間感覚」

こんにちは!
どんどんと色々な園さんの報告を書いていきたいのですが、今日はその前に先日の続きをもうすこしだけ書きたいと思います。
もし前回未読の人は、もあしよろしければこちらからお読みください。 「みえやすい保育 みえにくい保育」
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こんな風に、じっくりと進めていく子どもたちの場面に出会うと、
毎回確認させてもらうことがあります。
それは、大人が自分の目線で感じる時間の感覚と、子どもの目線で感じる時間の感覚の違いです。

僕は子どもたちの活動の「時間」が記録できるように写真をこまめに撮るようにしているのですが、今回のワークショップでは、彼女が考えて、時々周りの様子を伺い、作り、悩み、また作り、写真をとって、というまでには1時間という時間がありました。
そして、彼女の作る手に迷いが見られなくなるまでには、30分ほどの時間がありました。
その間、僕が彼女にかけた言葉はさっきの一言だけ。
あとは、じっくりとAちゃんの全部の行動を見守るという関わりをしていました。

さて、この30分という時間。
それも元気に遊んでいる、積極的に活動しているように見える子どもではなく、
何かを考えていたり、動きが止まっていたり、そういう子どもの30分。

この時間をどう見るのか。
その見方によって、子どもとの関わり、そして場の雰囲気は大きく変わってくるように思います。

それではまず大人の目線、つまりその活動の提案者(保育士や先生、講師)という目線でみてみたいと思います。

周りの子たちがどんどん作りはじめていく中で、ポツリと考えているAちゃん。
そんなAちゃんに対する、自分中心の目線というのは次のようなものではないでしょうか。

・Aちゃんやっていないなぁ。
・自分の導入や説明が至らなかったからだろうか。
・このままでは、周りの先生から私の保育(教育)の実力がないと評価されてしまうかもしれない。

そんな視点で考えはじめたら、この30分はとても不安で長い時間になるでしょう。
「何かフォローをしなくては。」
とAちゃんに対する自分のアプローチばかりが浮かび、
目の前のAちゃんの姿をちゃんと見ていられなくなります。

一方で、子どもの目線、作る本人の目線で見てみると、これがまた全然違います。
Aちゃんの目線

・何を作ろうかな。
・ああいうのも作りたい、こういうのも作りたい。
・どうやって作ろうかな。
・なにか工夫できるかもしれない。

そんなことを考えているなら、30分というのはとてもワクワクするあっという間の短い時間です。そして、そんな子どもの姿がみえきたら、こちらもじっくりと、楽しみに待っていられます。
僕はこの、子どもの目線の時間感覚というのが大切だと思います。

Aちゃんのような場面を前にして、

「どうしたの?」
「わからないかな?」
「一緒にやってみようか?」

まっさきにこんな声かけなきゃと思う先生もいるでしょう。

でもその時は、もう一度考えてみてください。

自分が言葉をかけようとする先には、誰の姿が見えていますか?

自分の言葉がけによって、よりイキイキと活動すその子の姿ですか?
それとも、
その子が他の子と同じように活動を始めて、ほっとする自分の姿ですか?

子どもたち以前に、僕ら大人が焦ることはないと思います。
ゆっくりゆっくりいきましょう(*^^*)


p.s.
経験が少ない先生は、そういう子どもの姿をじっくりと見ること、待つことが不安だと思います。
だけど、こちらが声をかけたい気持ちをグッとこらえて待っていた先に、その子が自分の力で一歩踏み出すという場面がちょっとずつちょっとずつたまっていくと、こちらの信じる力もどんどんと増えていくように思います。

反対に、その不安を解消するため、
自分が子どもを乗せるような誘導的スキルばかりに意識がいってしまっては、
たしかに子ども達が「何もしていない」という場面は減るのでしょうが、
それはただ大人のレールに子ども達がのせられているというだけで、
子ども達の主体の育ちの時間ではなくなっていくでしょう。

ですから今こそがんばりどころ。

その方法の一つとして、僕は写真を撮るというのをおすすめします。

写真をとるといっても、「はいチーズ」といって子どもの笑顔をとるような、後で見て楽しむための写真ではなくて、子どもには気づかれなくていいし、ピントがあってなくてもいいから、メモのかわりに撮るのです。
たとえピンとがずれていても、後でみれば、なぜ自分がそのとき写真をとったか覚えているものですし、何より良いことは、写真には時刻がついているので、客観的にその子の行動と時間の記録が残るんです。これがとても便利。

例えばこんな感じです。
先生はクラスで制作の時間、一見とりかかってないようにも見えるBくんに気付きました。(この場面のBくんというのは、単純にやり方がわかっていなくて、先生からのフォローがもう少しあれば活動をはじめられるというような場面とはまた別の様子というのが前提です。)

「Bくん、どうしたんだろう。何か考えているのかな。」
と一枚パシャリ。これがスタートです。
その5分後
「まだ考えているのかな。それともほかに何かあるのかな」
ここでまた一枚パシャリ。
他の子にかかわっているうちに、気づけば10分後、
ふと気づくと、Bくんはすでに作り始めていました。
「あ、見逃しちゃった。」
ここで一枚パシャリ。

こうすると、あとで見返したとき、Bくんはこちらがはたらきかけなくても、
15分後には自分で作りはじめていたという記録がのこります。
その日のBくんの場面は見逃してしまったけど、記録は残っている。

すると、次の活動のときには、少なくとも15分はB君にたいして「何かフォローしなきゃ」という視点だけではなく「様子を見てみようかな。」と思えるでしょう。

経験の少ない先生、若手の先生が不安になるのは当然のことです。
だけどそれを解消するために
「子どもを動かす力」を身につけるのと、
「子どもが動きだすのを見る力、待つ力」を身につけるのでは、
全然違うことのように思います。

見えにくいけれど、
わかりにくいけれど、
そこにも確実にその子の育ちがあります。
本当の意味で、
子どもの力を信じていきましょう。
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by doughnut-official | 2013-06-12 07:32 | コラム・エッセイ | Comments(0)

「汚れることをなくさない」

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なくさないシリーズ二回目は、汚れることについて書こうと思います。
クレヨンであそぶ、絵の具であそぶ、泥んこであそぶ、新聞紙であそぶ、etc
夢中になっているうちに、体や服が汚れてしまう遊びっていっぱいありますよね。

そんな遊びを大人だけの目線で考えると、中にはついつい
「汚れたら洗濯が大変」「せっかくの綺麗な洋服が台無し」
なんて思う親御さん、あるいは
「親に迷惑をかけられない。」「親からクレームがきては困る。」
なんて思う先生もいるでしょう。

しかし、もしそれらの遊びに対して、汚れることのデメリット以上の価値を見出せたなら、
きっと汚れるという理由で制限されることは今より少なくなるだろうし、子どもたちの体験が、もっともっと豊かになっていくのではと思います。

ということで、今日は砂遊びを例にして、その中にはどんな体験が隠れているのかを掘り下げてみようと思います。
みなさんも砂遊びをやっているつもりでイメージしながら読んで いただけると嬉しいです。

それでは、砂遊び実況スタート。

まずは砂に触れ、つかんだり、落としたり、両手でかきあつめたりしてみます。
サラサラして気持ち良いなぁ。
ヒンヤリして気持ち良いなぁ。
指先や手のひらから、砂の感触・温度を感じました。

そうして触って遊んでいると、砂の表面には指の跡で線ができていました。
その線をみて今度は想像力がはたらきます。
「あ!道だ!」
砂にできた線は、道になりました。

道になったら、今度はまた新しいアイデアが。
「道に何かを通してみたい!」
それでまた考えます。
「道に通すのは何がいいだろう?」
まずは指で何度かなぞってみました。
「うーん、指ではちょっと物足りないなぁ。」
「動きがあるナニカを通せないかなぁ。」
「それも自分で動かすのではなく、それ自体が動くナニカを。」

周りを見わたしてみても、うまく動いてくれるものはなさそう。

「うーん、どうしよう。」
自分の今までの体験と情報をフル稼働させて、
今の自分に用意できるナニカを、さらに考え続けます。

もう一度あたりを見まわしてみると、目線の先に水道を発見しました。

「そうだ!水を流そう!!」

自分の知識と経験と予想が結びいた瞬間です。

早速バケツで水を汲んできて、一気に水を流します。

ザバーッ。

すると道はたちまち崩壊しました。

「あらら。壊れちゃった。」

もう一回、道を作ろうとして、水を含んだ砂、つまり泥をさわってみます。
「あれ?」
さっきとは違う感触に気づいて、指でなぞると、さっきより形が残りやすいことを発見しました。
「水をかけたら、砂が固くなったぞ。」

と、まぁしかし、この発見はさておいて、まずはもう一回水を通したいのが今の気分。
あらためて道を作り、水をくんできます。

「さぁ、流そう!」
とはやる気持ちを感じながらも、ここで一旦ストップです。
さっき勢いよく流しすぎて、道が壊れたことを覚えていますから。
今度はさっきよりもそうっと、バケツを傾けます。
自分の身体の力の使い方を加減して、調節して、水を流すのです。

スーッ。

静かに道を流れていく水。

「やった、道が通った!」

見事、道に水を流すことに成功しました。

***

砂遊びの展開は他にも様々あるでしょう。
「道をどんどん作ろう。」と長くしたり、
「山を作ろう。」「トンネルを作ろう。」と立体的な造形をしたり、
「Aくん、Bちゃん、一緒にやろう。」と仲間と協同作業になるのも楽しそうですね。
あるいは、さっきの発見を思いだして。
「水に濡れた砂の感触面白かったなぁ。丸めると形になるぞ。」
「あ!これはお団子だ!」「これはおにぎりだ!」
というのもいい。

こんな風にして、子ども達は、頭と身体、五感や知識や経験や想像、そういうものをフルに使って遊んでいるのです。

とはいうものの、
今回は遊んでいる最中に思ったことをわかりやすく「」をつけてセリフにしましたが、実際は言葉で表現しながら遊でいるわけではありません。

だから大人には見えにくい。
見えるのは服や手の汚ればかりで。

しかし、見えにくいからといって、そこに価値がないというわけではありません。

そもそも、なぜ汚れるのかというと、
汚れる性質のモノ・コトは、汚れないようにと、簡単には自分のコントロールが効かないということで、
汚れる活動=コントロールが必要な活動といえるでしょう。

だからこそ、何度も経験して、考えたり、工夫したり、発見したり、調整したりする育ちの時間となるのです。

僕は、子どもが服や物を汚さないことよりも、
大人が子どもの育ちを汚さないことのほうが、ずっと大切なように思います。
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by doughnut-official | 2013-05-10 23:52 | コラム・エッセイ | Comments(0)

大人のことを書く理由

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最近のリポートでは、親や先生といった大人たちのことを多く書いているのですが、今日はその理由について少しだけ。

各地からワークショップに呼んでいただくと、いついっても、どこにいっても、子どもたちは魅力的です。
そんな時、やっぱり大事だよなぁと思うのが、側にいる大人たちの子ども観。
理由は、子どもたちが同じ行動をしていても、大人の見方によって、
その場の空気が全然違うものになってしまうからです。

例えば、一人の子どもが白い紙を前に、
「さぁ、これから何を描こうか」とイメージを膨らませている姿があるとします。

その姿を見て、
「何を描こうかワクワクするなんて、とても幸せな時間だよね。
たっぷり考えたらいいよ。」
と思う大人が近くにいるのと、
「あら、あの子は何をするかわかってないようだから、もっと教えてあげよう。」
と思う大人が近くにいるのとでは、
その子の活動の質は大きく変わってきます。

前者のような大人が側にいたら、その子の活動はたっぷりと自分の想像を巡らせる時間となるでしょう。
後者のような大人が側にいたら、その子の活動は大人からのレクチャーを学び、少しプレッシャーも感じ、課題をクリアする時間となるでしょう。

このように、二つの視点だけでも全然違うんです。
さらに、今は二つだけあげましたが、見方はもっともっとたくさんあります。

そこで、僕が実際に出会った、魅力的な大人たちを紹介することで、
子どもの心を軸にした子ども観と関わりのモデルを少しでも紹介できればと思いました。

子どもの見方が変わったら、子どもの味方が増えていきます。
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by doughnut-official | 2013-05-08 17:46 | コラム・エッセイ | Comments(0)

子どもの居場所の可能性2

こんにちは。
連休もあっという間に最終日ですね。明日からまたがんばっていきましょう♩

さて、今回のリポートは恒例であります、ララガーデン川口さんでの親子イベントの様子から。この日は、子どもの日にちなんで、こいのぼりを作って遊びました。
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親子で一緒に協力して作ったり、
親子それぞれに作って見せあったり、
夢中になって作る子と、それを優しく見守るママやパパがいたり、そんな素敵な時間が流れていきました。
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そんな中、こないだの差し入れに続き、また予想もしていなかったハッピーを参加者さんから、いただきました。

それは、今回で三回目の参加になる親子さんからの 報告。

「ひでちゃんに見せようっていってた写真があるんですよ。」
とママさん。
「写真?何ですか?」
出してくれた携帯画面を覗き込むと、
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それは姉弟二人がお家で作った、ダンボールのキリンでした。

「前回の動物づくりの工作をしたあと、家で作ったんですよ。それでひでちゃんに見せたいね。って。」

なんと嬉しいことでしょう。
今までも「家でやってます♩」っていう嬉しい報告は色々な方に聞かせてもらいました。
けれど、実際に写真でみせてもらうのは初めてのことで。
それも、見せようって思って撮ってくれたニコニコ笑顔。
感動でした。

あそこに行けば、また遊べる。
あそこに行けば、報告できる。

そんな「場所」があることの素晴らしさをひしひしと感じさせてもらいました。

街の中に子どもの居場所が少なくなったという話はよく聞きます。そういう面もたしかにあるでしょう。
しかし、僕は実感と確信をもって言いたいです。
街を作る大人たちの考え方や点一つで、本気でコーディネートすれば、子どもたちの居場所は、どこにでも作ることができると。

大人たちのコーディネートからはみ出す子どもたちへの期待も含めた上で、大人たちに作ることのできる環境の可能性は、まだまだこれから。

参加してくれた皆さん、そしてこのような素敵な場所をくださるララガーデン川口の皆さん、ありがとうございました(#^^#)
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by doughnut-official | 2013-05-06 10:34 | コラム・エッセイ | Comments(0)

「泣くことをなくさない」

シリーズコラム第一弾は、泣くことについてです。

子どもが泣くと、、大変ですよねぇ。
だから、大人はついつい泣かないようにするための方法を考えがちなように思います。

例えば、先生がクラスで子どもたちに色紙を配るとき。
一人ひとり好きな色を選ぶようにすると、思い通りにいきわたらず、もめる子・泣く子がいるかもしれないから、全員同じ色を用意する。そうすれば、誰も泣かないという発想。
そして、そういうクラスづくりができる先生は、周りからも子どものことをよく理解した保育をしている先生のように思われる。
こういう見方は少なくありません。

しかし、泣くということは本当にないほうがいいことなのか、
もう一度考えることが大切なように思います。

そこで具体的な場面をもう一つ。
僕のワークショップでよくあるのは次のような場面です。

ワークショップ終了時、泣き出す5歳のAちゃん。
それをみたママや先生が言います。

「ほら、もうさ年長さんになったんだよ。そんなんじゃ年中さんに戻っちゃうよ。
ほら、泣くのはもうおしまいにしよう。」

言い方は優しいです。でも、これは脅迫。
たしかに泣き止む子もいるけれど。それは、年長になれないのは嫌だから泣き止むという流れ。この子は泣いた気持ちに納得しているわけではありません。

またはこういう言い方。
「いつまで泣いてるの!!おいていっちゃうわよ!!」
語気を強め、迫力でその子の気持ちをおしこみます。
これも泣きやむ子はいます。怒られるのが怖いから。
でも、泣いた理由は関係ありません。

このような方法を使えば、だいたい泣きやみます、子ども達。
でも、子どもが泣きやむことよりも、それ以前に大切なことがあるのではないでしょうか。
それは「なぜ泣いたのか」という、その子の心。

泣くのには理由があるのです。

僕の例だと、泣いた理由は

もっとやりたかったからとか。
家でも作ってみたいけど、どうやっていいかわからないからとか。
この場所が終わってしまったら材料がないと思うからとか。
楽しい時間や別れが寂しいからとか。

そういう色々な気持ちがあって、
その全部が「泣く」という表現になるのです。
まだ泣くしか方法がわからないから。

そこで、最初は泣くしか表現方法をもっていない子どもに、新たな表現方法、つまり言葉を伝える役目をもつのが、親や保育士といった、そばにいる大人たちなのだと思います。

僕の場合は、さっきのような場面ではこんな風にやりとりするようにしています。

泣いているAちゃんの側にいって静かに話しかけます。
「まだやりたかった?」
泣くAちゃん。
僕は一人でつづけます
「俺だってまだやってたいもんなぁ。終わっちゃうのさみしいし。」
まだ泣いているAちゃん。でもさっより少し小さい声になりました。
「もっと作りたい?」
「うん。」
ここで、べそをかきながらも、はじめてうなづいてくれました。
「そしたらさ、材料あげるから。お家帰ってからもすぐやってみたら。」

ここまで話して、泣き止む子もいますし、泣き止まない子もいます。
もしまだ泣いていたら、他にも理由を探っていきます。
たとえば
「母ちゃんもやり方覚えたってさ。」
これは「家では、ひでちゃんがいないからできないのでは」という心配に応えるため。
「また次回も来るからさ。」
これは「もう会えないかも」という寂しさに応えるため。
「お母ちゃん、ほんとに帰ったらまたやるよねぇ。」
これは「ママも自分の気持ちをわかってくれている」と、安心してもらうため。

こんな風にして、細かく言葉にしていきます。
ここまで具体的なやりとりを書くのはナンセンスな気がするのですが、
それは僕は自分の方法が正しいとか、泣き止ませ方を伝えたいから
ということではないんです。
その子の泣く気持ちにいかに寄り添って、大人が受け止め、それを言葉にしていくという場面が、少しでもリアルに想像してもらえればと思います。

子どもたちはそうやって、大人からも言葉をもらい、
支えてもらいながら自分の気持ちに整理をつける経験を何度も味わっていく。
そしてその経験が、やがては自分気持ちを泣かずに言葉で表現し、自力で気持ちの整理できるように育っていくのではないかと思います。

泣いている子と関わるとき、
自分はその子の泣く気持ちを受け止めようとしているのか?
その子の泣く行為をやめさせようとしているのか?

どちらの視点にいるかで、
子どもの泣くことへの見え方、そしてコミュニケーションは大きく変わります。

子どもの泣く機会をなくすということが、
新たな心が生まれ、新たな表現を学ぶ機会をなくすことにならなければと強く思います。

p.s.
わかっているけど。今の自分にはキツイ、という状況の親や先生もいるでしょう。
そんな時は、自分で抱えることなくフォローしてもらっていいと思います。
先生なら現場の仲間や上司、パパやママなら近くの保育園や子育てサロン。
味方はたくさんいますから、甘えてください。
職員はそのためのチームだし、サロンはそのための場所ですから。

自分のキツイのを解決するために子どもに求めるのではなく、
子どもの育ちを守るために、大人同士で支えあっていければ素敵。
僕もできる限りフォローします。

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by doughnut-official | 2013-05-03 16:33 | コラム・エッセイ | Comments(3)

「子どもの育ちは連続している」

さて、コラムの続きの前に、通常のワークショップの様子も書いていきますね(^^)

週末は越谷市増林保育所にて、親子講座でした。
こちらの講座もおかげさまで今年四年目となりまして、親子の皆さんも、先生達も楽しみにしてくださっています。

今回も新聞紙を使って色々な遊びをしました。
子どもたちは一つ、何かきっかけがあると、それを何倍ものアイデアで返してくれます♪
と、この姿はきっとみなさんも浮かぶと思うのですが、
実はパパやママも同じように何倍ものアイデアを見せてくれるんですよね。
遊びの引き出し、大人もほんとはいっぱいもっているんです。忘れているだけで。
だから、つい日常では見逃しちゃうような、ほんの少しのきっかけさえあれば、親子の遊びはどんどんと広がっていくのでした。
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数を重ねていくうちに、参加者の親子さん達とは自然とつながりができていきます。
その中に、昨年の春に出会い、すでに四回目の再会となった親子さんがいました。
この家族はいつもパパさん・ママさん・息子さん三人一緒に来てくれています。
そのパパがワークショップの最中、僕のところにきてこんな質問をしました。

「ひでちゃんさ、いつもそれぞれ自由にっていうじゃん?
でもさ、俺ら大人の世界ってそうじゃないよね。その点どう考えてるの?」

僕が答えます。

「僕は今だからこそ、大切にしてほしいなって思います。
学校教育は、中には素敵な先生もいるけど、基本的には、個より集団、協調のほうを要求されていきますし。そのことはきっと嫌でもわかっていきます。僕らもそうだっだでしょ。子ども時代ってそんなにバカじゃないです。でも今は特に、一番最初の自分の土台をつくる時期。だからこそ自分の好き・嫌いや興味関心をたっぷり発見して過ごしてほしいなって思うんです。
もちろん学校に行ってからも、親には土台の方を支える存在であってほしい。」

するとパパ。

「なるほどねぇ。たしかに、だんだん嫌でもそうなるかぁ。俺が子どものときもそんなだったのかなぁ。」

「もっと土台を守るすきまはあったんでしょうね。今は携帯にネットに、情報は何でも広まるし。何かといえばリスクをなくさなきゃという感じで。色々な面で窮屈な気はします。」

「たしかにねぇ。そうかぁ。うちの子、もう少しのんびり見ててあげたいなぁ。」

夢中になっている親子たちを見ながら、こんな話をしたのでした。

***

僕はこのパパさん、すごく良いなぁと思います。
なぜかというと、わが子の育ちを、自分自身の大人の価値観にまで膨らませて,考えているから。

というのも、
教育現場や保育現場では、子どもの育ちが部分で切り取られることが少なくないんですよね。
例えば小学生を思い浮かべてみてください。
小学生たちのゴールは「立派な中学生になる」という部分で切り取られることが多いです。
上級生になるほど、とにかくがんばらさせられる。
「もうすぐ中学生なんだから!」なんて言われて。
では、中学校に入ってみるとどうでしょう。
一年生に逆戻りです。

幼稚園や保育園で「立派な小学生」を目指してきた一年生も同様です。
園ではがんばってきて、入ってみたら、今度は「まだ一年生だから。」なんて甘くみられたりします。

それは失礼な話でしょう。

小学一年生は、6年という時間(正確には一人ひとり6年と数か月)をしっかり育ってきているし、
中学一年生は12年という時間をしっかり育ってきているのですから。

もっといえば、
年中クラスだって年長クラスになるための時間じゃないし、5年生だって6年生になるための時間じゃない。

子どもたちは小学生や中学生に向かって、ぶつ切りに育っていくんじゃなくて、
生まれた時からずっと、大人に向かって、連続して育ち続けているのです。

子ども達一人ひとりの「今」という時間は、大人の決めた区切りで結果を出すための準備時間にはなっていませんか。

親や先生が、わが子やクラスの子どもに対して、何かしらの疑問や焦り、課題などを感じたときは、一度、その子の育ちをもっともっと広い視野、つまり大人になるまで広げて考えてみるといいのかもしれません。
広い視野でみてみると、立派な小学生・中学生になるため、大人が「~させなければ」と思っていたことも、また少しちがって見えてくるように思います。

5歳の息子の時間から、パパ自身の大人の社会までを考え、あらためて、今はわが子のペースを受けとめていこうとしたパパさんはとっても素敵でした♪

増林保育所の皆さん、ありがとうございました(*^^*)
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by doughnut-official | 2013-05-01 07:37 | コラム・エッセイ | Comments(0)