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DONUT WORKSHOP REPORT

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カテゴリ:コラム・エッセイ( 72 )

「小さな子ども達は、集中力がないのではなく、自分で判断して、集中を切っただけ。」

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「集中力がない。」

小さな子ども達は、よく言われがちです。

でも、僕は、これも大きな誤解ではないかと思っています。

****

例えば、クラス20人で絵を描いて遊んでいて、

一人、それをやめた子がいます。

すると

「あの子は、集中力がないから。」

と見られがち。

なぜそう思うのでしょうね。

ただ、やめただけなのに。

自分はここで終わりにすると、判断しただけなのに。

自分の遊びや活動に、自分で終わる判断をするって、すごい力です。

****

この違和感、大人で考えるとわかりやすいと思います。

例えば、友人が音楽をすすめてくれてアルバムをかしてくれた。

聴いてみると、自分にはあんまり好みじゃない。

それでも聴きつづけますか。

せっかく紹介してくれたしとか、

聴いている内に良くなるかもしれないとか、

そういう自分なりの理由や興味を見つけて、聴く人もいるでしょうが、

途中で終わりにする人も多いんじゃないでしょうか。

じゃあそれは、集中力がないから?

違いますよね。

自分でやめると判断しただけのことです。

****

こんな当たり前のことが、子どもだとそうはいかない。

ついつい他の子どもの反応と比べられて、

他のこと同じくらいの時間やらないあの子は、

「集中力がない」

と全然本質の違う見方をされてしまう。

やめたことと、集中力の有無は全然関係ないのに。

***

じゃあなぜそう見られやすいのか。

それはきっと多くの大人が、

深く無意識レベルくらいにまですりこまれている

「子どもは未熟な存在」

という先入観があるからなのかもしれません。

たしかに未熟な部分、支えが必要な部分はもちろんあるのでしょうが、
でも子どもの全てが未熟なわけではないと思います。

僕はこれまで何万人という子ども達に出会わせてもらったのですが、

出会った限りでは、

集中力のない子どもって、見たことありません。

(色々な状況があって、気持ちが落ち着かず、集中どころではないという様子は見たことはもちろんあります。でも、これは集中力をもっていないこととは違います。)

*****

今日もそうでした。

今日は、保育園にて、4歳クラスの子ども達と折り紙や画用紙を使いお菓子をつくって遊んだのですが、ワークショップをはじめる前の打合せで、先生は言ったんです。

「集中がもたない子も中にはいると思いますが、」

おそらく講師である僕への心使いでもあったのかもしれませんが、
僕は返しました、

「集中力はきっと、みんな持ってます。
楽しければやる、つまらなくなったらやらない。それだけです。
なので、子どもたちと一緒に楽しいをどんどん広げていけたらいいですね。」

と。

実際はどうだったか、

30人全員が、2時間たっぷり、夢中になって遊んでいました。

これは、僕のワークショップに全員が参加したから、
僕のワークショップはすごいんでしょなんてことが言いたいのではありません。

全員が二時間、自分の「面白い」を見つけ続けて、時間を過ごしていたということです。


好きなお菓子を、思い思いの味付けで、つくることからはじまって。

お菓子ができたら、食べるごっこ遊びをする。

すると誰かが店員さんになる。

すると、また違う誰かがお金を作る。

買う人、売る人になって、

今度は違う誰かが看板を作る。

品物を管理するパソコンを作る人もいる。

どんどんお金を作って、みんなに配る人。

お金をしまう財布を作る人。

お店の飾りを作る人がいて、

お客さんに商品以外のお土産をつくる人がいて、

お店用の電話と電話番号を作る人もいる

これらは、全部子ども達がそれぞれに考えて、
作って、

なりきって、

遊びながら、

考えながら、

作りながら

集中していた姿です。

僕が今日提案したのは、
「お菓子を作って遊ぼうぜ。」
だけ

すごいなぁと思います。

***

子ども達は

興味・関心・好奇心の出会いがあって、

考える時間があって、

それらをベースに遊びを通して、

気づいたり、意味づけたりできる仲間があれば、

めちゃくちゃ集中力を発揮するのだと思います。

集中力がないんじゃなくて、

持っている集中力を存分に発揮できる環境があるかないかがポイント。

今日の遊びを終わりにした理由は

「お腹がすいた。」

集中力の切れた、最高の理由だと思います。

***

前回の赤ちゃんの話もそうですが、

子どもは未熟で、力のない存在

という先入観を一回置いてみないと、見えてこない

子どもの力、

子どもの魅力が

まだまだたくさんあるように思います。

たくさん見つけていきたいですね(*^^*)
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by doughnut-official | 2015-02-13 20:39 | コラム・エッセイ | Comments(0)

「赤ちゃんは歩けないのではなく、たぶん、歩かない。」

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生まれてきたばかりの赤ちゃんを、
「歩けない」
と考えている人はどれくらいいるでしょうか。

赤ちゃんはよくいわれます。

はいはいをするようになると、
はいはいが「できるようになった。」

歩くようになると、
歩くのが「できるようになった。」

と。

しかし、赤ちゃんは本当に「歩けない」のでしょうか。

赤ちゃんをよ~く見ていると、僕は少しちがうのではいかと思います。

赤ちゃんはきっと、

歩けないのではなく、

歩かないのだと思います。


誰でも一度は見たことあるでしょう。

赤ちゃんの眼差しを。

お母さんに抱かれているときも、

ベッドに横になっているときも、

目線は右に、左に、
上に、下に、

時にじっととどまり、
また別の何かへ移す

あの真剣な目。

一生懸命に世界を捉えようとしているように思えます。

赤ちゃん自身、
「そうそう!私は、私なりに初めて見る世界を理解しようとしているんだ!」
なんて答えてくれるわけではありませんが。

その一つの証ではないかと思えるのが、

人見知り。

だいたい六か月頃にはじまるといわれる人見知りは、

赤ちゃんにとって「特別な人」ができたときに、はじまるのだそうです。


この世界に生まれて、

約六か月という時間をかけて、

自分の特別な人ができたからこそ、

それ以外の人には緊張するようになる。

これって、赤ちゃんがいかに冷静に、
自分の周囲の世界を捉えようとしているかを表している気がしませんか。


歩かない話にもどります。

少し、考えてみてください。

もし赤ちゃんが生まれた瞬間から歩けたら、どうなのでしょう。

知識も経験もなく、
全く未知の世界にいきなり放りだされ、
かつ、膨大な情報が一気にとびこんできたら、
その情報量の多さに、整理や理解が追い付かず、パンクしてしまうんじゃないかと思います。

(余談ですが、これに似ているのが今のネットの情報との付き合い方だと思います。
ネットで情報を取り入れることはたしかに便利です。しかし、ネット上にある情報は、おそらく一人の人間が取り入れて、整理できるキャパは明らかにうわまわっている。そのキャパを見失い、取り入れられると思い込んだら、疲れてしまうでしょう。)

だからまず、
赤ちゃんは、自分が横になって、見える範囲、聞こえる範囲、触れる範囲で、世界を捉えようとする。

自分の目の前にはどんな景色があって
自分の近くには誰がいて、
誰が自分と快い時間を過ごしてくれたり、
自分の不快をとりのぞいてくれたり、

そんなことを捉えて、自分が生きる上で一番重要な情報を整理する。

そうして整理ができたときに、
はじめて体勢をかえ、少し新しい世界を見る。

自分の周りにはどんなモノがあって、
どんなことがおきているのか

そんな情報が集まり整理できると、

今度は起き上がり、さらに少し範囲を広げて新しい世界を見る。

また整理ができたら、今度は、はいはい。

また整理ができたら、今度は歩く。

これって、とても合理的な流れだと思います。

******

赤ちゃんは、生まれながらにして

自分の力や、
自分のペースや
自分のキャパや

そういうのを自分なりに
というよりも、
生命として本質的にわかっているから、

一つ一つ、

丁寧に、

自分の生まれた、この世界を捉えようとする。

だから、

赤ちゃんは歩けないんじゃなくて、

歩かない。

***

赤ちゃんだけでなく、
子どもの成長は
なにかにつけて、

「できる」
「できない」

という見方で見られがちです。

でも、おそらく、
子どもって、
命って、
もっと賢い。

その子が快く生きていくことにとって、
それがアリか、ナシか

大人が考える
「できる」「できない」
よりももっと、深いところで
「やる」か「やらない」かの判断をしているのだと思います。

****

赤ちゃんって、けっこうわかってると思います。

小さくて、
未熟で、
まだ何もわかっていない存在

なんていう先入観で、

その熱い視線に気づかず、

スマホでSNSやゲームとにらめっこしてたら、

雑な保育をしてたら、

もったいないです。
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by doughnut-official | 2015-02-11 19:32 | コラム・エッセイ | Comments(0)

「遊びや表現において『わからない』はいつ生まれるのか」

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2歳の子ども達とワークショップをしている時に、
例えば、クレヨンやはさみに初めて出会った子は、

「わからない。」

とはいいません。
基本的に、目の前のことを探求することからはじめるからです。

わからないではなく、
「これはなんだろう?」
と考え、
遊んでいるようにも見えるかもしれないけど、
かなり真剣に考え、
触ったり、
動かしたり、
時には匂いをかいだり、
口にいれてみたりもしながら、
そのモノを理解しようと、
学びの時間を過ごす。

これが、子どもにとってのモノ・コトとの基本的な出会い方なのではないかと思います。

しかし、そんな子どもの中で、
いつのまにか
「わからない」
という言葉を使うようになる子達がいます。

それも、勉強的なものに対して「わからない」というのではなく。

遊びや、表現することに対して

「わからない。」

というのです。

それはなぜか。

子ども達はそれを自分では語りませんが、
僕が出会わせてもらった子ども達を見る限りでは、

それは、
その子の中に、「正解」という概念ができたから、

というよりも、
作られてしまったから

なのではないかと思います。

本来、
遊びに正解はありません。
表現に正解はありません。

にも関わらず、
「わからない」という。

それは、
近くにいる大人が、

「これは、こうするのよ。」
とか、
「ここは、もっとこうやるといいよ。」
とか、

表向き「教える」という形で、
「正解」を作り、
子どもの「間違い」を作った時に生まれるのだと思います。

しなかっただけの子が、
できなかった子になり、

「自分は違っている。」
という認識をもたされる。

そして、そんなやりとりばかりを繰り返していったら、
やっぱり間違えるのはイヤだから、
自分から動くことをやめて、

「わからない」

という。
これは自然なことだと思います。

それが一番楽だし、
なにより自分を守れます。

遊びや表現活動の中で子ども達が言う
「わからない」
の背景には、こんな流れがあるのではないかと思います。

****

なので、
「わからない。」
という子に出会ったら、
僕はまず
「安心を作ろう。」
と、親やクラスの担任とも話をするようにしています。

安心をつくる。

つまり
「間違ってもいいじゃん。」
ということや、
「そもそも間違いなんてないじゃん。」
という雰囲気を作ること。

それをどう作るのかっていうと、
言葉でストレートに伝えるときもありますが、
だいたいは、
穏やかに、ニッコリと笑って、ただそこにいれば、
けっこう解決してしまうように思います。

もちろん具体的な方法も色々ありますが、
まずは笑うこと。

明日も子ども達と笑顔溢れる一日になりますように(*^^*)
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by doughnut-official | 2015-02-09 22:18 | コラム・エッセイ | Comments(0)

「子どもの日常の何気ないことに対する大人の感度」

僕は、ふだん造形遊びを中心に子ども達と関わらせてもらっていますが、
自分が子ども達とワークショップをやっていない時に、園の子ども達の日常を見せてもらう時間もすごく好きで、子ども達の魅力的な姿を見させてもらっています。
今日はそんな、保育園の何気ない日常の光景からリポートを。

先日、来年度新たに担当する保育雑誌でワークショップの協力をしてもらう、陽だまり保育園さんに打ち合わせに行ったときのことです。

僕が言ったのはちょうど、お昼寝時間の後半あたり。
園長先生との話が盛り上がっていると、子ども達が起きて、部屋からでてきました。
(打ち合わせをしているテーブルからは、子ども達の部屋の様子が見えるんです。)
その時の子ども達の動きは色々でした。
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例えば、
良い夢がみれたのか、もう少し眠たい様子でゆっくりと布団をかたずける子もいれば、
楽しみなおやつをとりにいこうと、いきおいよく給食室に向かう子もいます。

僕に気付いて「ひでちゃん!きてたの?」と声をかけてくる子もいれば、
初対面の僕に「何だこの人は?」といった表情で少し緊張しながら近づいてくる子もいます。

あとは、何をするでもなく、目線をあちらこちら、足取りもあっちこっち、という子ども達が何人も。
この姿がまたすごく魅力的なんですね。
マイペースで自由な目線の動きと、
このあとの遊びの計画を、体全身で考えているような足どり。

こうした姿からは、子ども達が「自分の時間をいかにして過ごそうか」と、自ら考え、動き出す、イキイキした力をもっているかということが伝わってくるように思います。

と同時に、子ども達がこんな風にいられるということは、
この場所が、そしてこの時間が、普段どれだけ一人一人のペースや主体性を守られているかということでもあるのでしょう。

そして、こののんびりした空間ができるために、欠かせないことはもう一つあるように思います。
それは、保育士のみんなが、心穏やかであるということ。

子ども達のそれぞれのペースに対して、焦ることなくにこやかな先生たち。
この存在が子ども達にもたらすのは、大きな安心なのでしょう。
お昼寝から起きてくるほんの一場面の様子ですが、

この、子ども達が自ら考え、動きだすときの、イキイキしとした姿
そして、そんなイキイキした表情に欠かせない、安心の存在からは、
子どもの育ちにとって大切なこと、そして僕自身がワークショップの中で大切にしたいことをあらためて確認させてもらいました。

今から子ども達とのワークショップが楽しみです。
陽だまり保育園のみなさん、ありがとうございました(*^^*)
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by doughnut-official | 2014-11-01 21:34 | コラム・エッセイ | Comments(0)

一歳三か月のコミュニケーションに対する誠実さ

こんにちは(^^)
あっという間に五月にはいりましたね!みなさんGWはおでかけされるのでしょうか。

僕の最近はというと、今月末から動き出す色々な企画の打ち合わせ&準備の日々といった感じです。ブログでも少しずつ告知していきますね♩

さて、準備しているものの一つに「小学校の倉庫にこども達と絵を描こう!」というプロジェクトがあります。
企画してくれたのは、嬉しいことに学生時代に切磋琢磨した親友です。
七年前、僕はこども達との造形遊びの専門へ、友人は小学校の先生へ、と別れた道が再び交わることになりました。感謝です。
*****

今日は、その打ち合わせの時に新しくできた小さな友人のことをリポートしたいと思います。彼の娘で、一歳三ヶ月のミーさんです。
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前回も書きましたが、僕は初めての人・まだあまり知らない人に出会ったときは、
相手が何歳であっても、気軽に距離をつめたりはできません。

なのでミーさんとも、少し離れたところから様子を伺い、たまに目があえば、ニコリ。
というのを繰り返していました。

一方、彼女もよく見ていました。
自分には誰だかわからないけれど、何やらお父さん・お母さんとは親しげに話している人。
お父さんやお母さんはこの人(僕)に警戒することなく、笑顔をむけていること。
お父さんやお母さんと一緒に、この人も自分に微笑みかけてくれること。
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そんな時間を過ごしていくうちにミーさん、
「こいつは安全だ。そしてちょっと面白そうだ。」
と判断したのでしょう。
だんだんと距離が近くなり、気づけば、僕の足をトンネルにしてくぐっていました。
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1歳のコミュニケーションに対する誠実さ
学校での打ち合わせが終わったあとは、お家に訪問させてもらいました。
奥さんがおやつや飲み物をだしてくれ、友人との話がひと段落すると、ミーさんは僕のところに自分のおもちゃをもってきました。
そして、そのおもちゃでどんな風に遊ぶのか教えてくれました。

まずはこれ。穴にいれて遊びます。
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それから積み木で上に三角をのせるところもみせてくれたり、お絵描きボードで彼女が描いたものを僕が食べる真似をして、彼女はそれを見て「おいしい」と、ごっこ遊びをしたりしました。
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と、遊んでいるうちにふと気づきました。

彼女は、僕がどんな人かを、ものすごく真剣に知ろうとしていたということにです。

自分のお気に入りのおもちゃを紹介することで、
僕がどんな人で、どんなことに関心をもち、どんな反応をするのか、そして、その反応は自分自身の好みにあうかを知ろうとする。

僕も同じです。
みーさんがどんなことを考えて、どんなことに面白さを感じて、どんな反応をするか。
そしてそれを僕自身も楽しいと感じるかを知ろうとする。

お互いに手抜きはなし。
こういう誠実なコミュニケーションというのはとても面白いですよね。
その面白さは、小さな子どもをあやす、かわいがるという視点とは違って。
ミーティングが盛り上がっている時とか、スポーツで良い試合をしている時とか、そういう感覚に近いように思います。

一歳三か月、いいかえると15か月生きてきたみーさんは、15か月分の知識と経験と想像をフル活用して、
30歳七か月=367か月生きてきた僕は、367か月分の知識と経験と想像をフル活用して、やりとりをする。
15/15対367/367=1対1のフェアなやりとりです。
だから面白い。
年齢は関係ありません。
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*****
年齢の先入観
しかし、子育てや保育や教育の現場で大人と子どものやりとりを見ていると、例えば1歳と30歳の場合、
1歳の子どもに対して30歳の大人は、子どもを自分の年齢30年分の1年として見る人が少なくないように思います。もちろん社会的な面(他者との関わりの中で生きるという意味で)で見ればそういう部分もありますが、それだけでは見えなくなってしまう、その子ならではの魅力や能力もあるように思います。

皆さんはどうでしょうか。
見えないだけならまだしも、先入観が子どもの成長の天井となり、可能性を阻む壁となってしまうこともありますので、丁寧に見ていきたいものですね。

(このリポートでは、なるべく年齢を紹介するようにしているのですが、それは年齢の先入観の濃さをひしひしと感じるからこそ、先入観を少しでも壊すことができればという思いから、あえて書くようにしています。)

*****

よく見て、考えて、自分と相手の共感、あるいは違和感を、一生懸命に捉えようとする。
ミーさんは、とても誠実なコミュニケーションをもって、世界をとらえようとしている人でした。

そして、そんなミーさんの姿をこれまた誠実に、温かく、のんびりと見守っているのが、お父さんとお母さんでした。
ゆう先生、さあママ、ミーさん、ありがとうございました(*^^*)
企画、子ども達とみんなで成功させましょうね♪
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by doughnut-official | 2014-05-02 11:55 | コラム・エッセイ | Comments(4)

「提案と誘導の違い」

今日は、前回の内容にいただいたBママさんのコメントから。

>この「気づき」は難しいですね。ともすれば「誘導して」しまいます。
>自由にさせることと、放っておくことの違いのようですね。

大切なポイントをありがとうございます。
そう、子どもとの関わりの中には、行動は同じように見えても意識によって、その質は正反対というものがたくさんあるんですよね。
今日はそのことについて書こうと思います。

提案と誘導

前回のような「きっかけ」というのは、Bママさんのおっしゃる通り、提案にも誘導にもなるものだと思います。
ではその違いは何かというと、それは「相手(子ども)の判断を本当に信用しているかどうか」という、子どもに対しての意識の違いではないでしょうか。

提案は、きっかけに対して子どもが乗るか反るか、子どもの判断とその理由に重きをおいています。
だから、子どもが乗っても・反っても、どちらであっても、その判断を尊重し、それに対する気持ちや理由が見えてきます。
「子どもの判断を信じる」というのは、「やる」ことを信じるという意味ではなく、「やる」「やらない」を自分で決められるという意味です。

一方で誘導は、自分が子どもをのせることができたか、できなかったか、子どもの行動と結果に注目しています。注目しているのは自分の誘導の成否と子どもの結果ですから、当然子どもの判断の理由や気持ちは見えてきません。
子ども達は一見やっているように見えても、それは乗せられているからでかあって、自分で判断はしていません。
強い言い方かもしれませんが、誘導というのは、子どもの判断する力を信じていないということともいえるような気がします。

提案と誘導の違いの見抜き方は、子どもがやらなかったときの大人の反応・雰囲気を見るとよくわかります。
やらなかったときに、その子どもの判断が尊重され、そのあとも穏やかな時間が流れていくなら、それは提案。
一方、やらなかったことを責められたり、直接は責められないにしろ、やらなかったことで居心地悪い空気が生まれるのは、誘導です。

*****

教育、保育の現場をみていると、この誘導が氾濫しているように思います。
なぜか。

それは目に見える結果ばかりにとらわれているから。

結果だけをみるならば、誘導の方が子ども達はよりスムースに動くでしょう。
だからついつい誘導しようとする大人は多いし、そういう人が優れた保育士、教員と思われやすいものです。しかし、子どもの育ちを目先の結果ではなく、10年20年という広い視野でみたら、それはもったいないことだと思います。

なぜなら。
大人になったら、誰だって、いつだって自分の判断を迫られます。
その時、判断に対する自信(うまくいっても失敗しても、その自分に納得する、受け入れるという意味)の土台の一番下にくるのは何かと言ったら、子ども時代の判断に対する成功や失敗、葛藤や試行錯誤といったプロセスの経験値でしょう。
誘導は、そういう子ども自身の判断の機会を奪ってしまう面もあるのです。

子ども時代の、「目に見える結果」と「目に見えない経験」の質の違い、重さというのを、あらためて整理していくことが大切なように思います。

(余談ですが、保育園や幼稚園、学校などを見る時には、そこにいる保育士や教員が、提案者か、誘導者か、よく見てみてください。
また僕のような、造形遊びや歌遊びなど実践、講師をしている人のこともよく見てみてください。
提案者タイプと、誘導者タイプがいます。
僕は、教育や保育に対する大人の関わりは、提案者であることが大切だと思っています。)

*****

Bママさんがおっしゃった、
親としての欲求を手放すというのも、いいかえれば「信じる」ということのように思います。

どんなことができようができまいが、
それを周りに評価されようがされまいが、
関係なく
ありのままの自分を底なしに信じてくれる親や、誰かの存在があるということは、

勉強ができる、運動ができる、絵が上手い、リーダーシップがとれる、どんなことができることよりも、自信の核を作るように思います。

わが子の目先の行動と結果にとらわれることなく、
10年後、20年後に、魅力的な大人に育っていくことを信じて、
じっくりじっくり育ちを見守っていっていただけたらと思います(*^^*)
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by doughnut-official | 2014-03-05 17:49 | コラム・エッセイ | Comments(2)

「集中についての誤解」

集中する時間の長さが集中力ではない
教育や保育の現場に関わっていると、
「子どもの集中力を育てる。」
という言い方を聞くことは少なくありません。
また、より小さな子どものほうが、集中力が少ないと思われがちです。

しかし、これって「集中」を誤解して捉えているような気がします。

たしかに集中している「時間」というのは年齢が上がっていくほど長くなる傾向はあるでしょう。でも、その時間の長さというのは、集中力のあるなしとは違うように思います。今日はそのことについて。


集中の中身
そもそも、集中とはどういう状態なのか。
例えば子どもが集中して絵を描いているところを思い浮かべて考えてみます。

集中して絵を描いている。
それは言い換えれば、他のことに興味や関心がいかず、それに専念している状態ということでしょう。

では、なぜ他のことに興味がいかないのか。
それは他に興味がいかないくらい、絵を描いているのが面白いからです。

ではなぜ面白いのか。
理由は人によって違うでしょうが、いくつかあげてみると、

筆の感触が良くて、いくらやっても飽きないほどに面白い。
自分の思ったことを絵にできることが面白い。
思ったように描けなくて、でも描くほどイメージに近づいていくのが面白い。
一つ何かを描いたら、そこから新たに描きたいアイデアが浮かんできて、その想像の広がりが面白い。
などがあると思います。

具体的にいうと例えば、一つのりんご絵を描いたあと、
他の果物も浮かんで、隣にみかん、いちご、という風に描いていく。
すると、今度はその並んでいる様子がお店屋さんに見えて、看板をかいて果物屋さんにする。

あるいは、一つのりんごを描いたあと、
もっと自分の納得のいくりんごが描きたいと思ったり、筆の感触をもっと楽しみたいと思って、さらに二個目のりんごを描く。

あるいは、一つのりんごを描いたあと、
それをはさみで切って、お友達にあげる。そしてまた新しいりんごを描いて、切って、別の友達にあげる、という展開。

こんな風に想像と表現がひろがって、面白さが継続しているときは、
集中の状態は続いているといえるでしょう。
(多くの人が、年齢が上がるにつれ集中する時間が長くなるのも、知識や経験が増え、面白さを広げる素材が多いということで考えると、しっくりきます。)

反対にいえば、
集中していない状態というのは、
=他に興味がいったり、飽きてしまった状態、
=面白いと思えない状態ということです。

では、面白く思えないのはなぜか。
これには大きくわけて三つあるように思います。

一つ目は単純に、その人の好みに合わなかったときです。
好みに合わなくて、面白いと思えなければ、もちろん集中なんてできません。

もう一つも単純で、疲れているときというのもあると思います。
どんなに面白くても、疲れれば集中が切れるのも自然なことです。

この二つは特に問題はないですよね。
(それでも無理をしてやっている(親や先生に怒られたくないといった理由で)としたら
その力は、集中する力ではなく、自分のやりたくない気持ちをおさえて、我慢する力といえるでしょう。)

そして、今回ポイントにしたいのが、最後の一つです。
それは面白いときの理由の反対。

面白さを、さらに自分で工夫を見つけて掘り下げたり、そこから新たな展開を想像できなかったからです。

では想像できない理由はなぜか。
これには二つあると考えます。

一つは、新しい想像や工夫のアイデアを生み出す源となる経験や知識といった引き出しが少ないから。
もう一つは、自分の判断で勝手に発展させてはいけないと思いこんでいるから。

という二つです。
なので、このような場面での大人の関わりを考えると、
前者の場合は、
近くにいる大人(親や保育士など)がほんの少し発展のきっかけを提案したり、
一緒にさらなる想像を膨らませたり、
あるいは他の友達のアイデアから刺激を受けることで、
その子の面白さは続いていくように思います。

後者の場合は、
普段の行動・活動で制止ばかりされていると、アイデアは浮かんでいても、「それを勝手にやったら怒られてしまうかも」と躊躇しているときがありますので、
まずは「思い浮かんだら、やってもいいんだ。(否定されないんだ)」という安心の関係を作ることが、結果的に、その子の活動の展開につながっていくように思います。

これが、僕が子ども達と関わってきて考える、「集中」の中身です。
どうでしょうか。
ここまで整理すると、子ども達が集中しない状態というのは、集中力がないからではなく、別に理由があるということが見てもらえるのではないかと思います。


集中しないことと集中力がないことは違う
今回、僕が集中について整理することで、何を伝えたかったのかというと、

「集中しない」というのは集中力がないからではない

ということです。
子どもだから集中力がないわけでなく、
その都度一人一人自分の今の育ち(知識や経験)の素直なリアクションとして、
集中したり、しなかったりしているだけなんだと思います。

そのことを
「小さいから集中する力が足りない」
と誤解して関わろうとすると、そこで育てているのは、集中の感覚とはほど遠い、
たとえ自分がつまらなくても我慢してこなす、忍耐力のように思います。

集中しない子に対する、保育士や教師の理想の関わりはきっとそういうことではありません。先ほど書いたように、

集中しない子に対して、その子の正直な反応を受け止め、
その子が自ら活動を工夫して発展させていける土台として、
今後どんなきっかけや、経験、環境を提案していけるかということを考える視点が大切なのだと思います。

子ども達の様子に対して、
「集中力が育つ・育っていない」という大雑把な視点で、自分たちの環境づくりのいたらなさを責任転嫁していることってないでしょうか。


主体性をもたなくなるのはなぜか
前回のテーマであった「主体性」。
小さな頃は誰もがもっているこの誠実な態度が、
いつ、どうのように薄まっていくのだろうということを考えていたら、
今回とりあげた教育・保育現場でもたれている「集中の誤解」ということも、つながっているような気がしました。

子ども達は集中力を持っています。

(以前このブログでも、一時間半ひたすら絵の具で遊び続けていた2歳の女の子を紹介しましたので、よかったらこちら「子どもたちの虚像と実像」もどうぞ。)
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by doughnut-official | 2014-01-16 17:39 | コラム・エッセイ | Comments(0)

[お母さんの正直な気持ち」

先日このブログで紹介させてもらったりーちゃん(2歳)のお母さんから嬉しいメッセージをいただきました。
そこにはお母さんのわが子への思いと、そして日々悩みや葛藤も持ちながらがんばっていらっしゃる親の姿がとてもあらわれていました。
そこで、こういう生の声にはきっと、このブログを読んでくださっているどこかのお母さんにも共感やエールになるのでは思い、掲載させてもらうことにしました。
りーちゃんママ、快諾してくださりありがとうございます。

ということで、ご紹介したいと思います。

***

その節は素敵な時間をありがとうございました。
とても楽しかったらしく、娘は何度もひでさんの話をしています。
今日はお絵かきの先生いるの?といつも聞いてきます。
充実した時間だったんですね。

ひでさんのブログ、拝見しました。
ひでさんが書かれていたような「寄り添う」ことができているかどうか怪しいところですが、あんなふうに感じてくださってとてもうれしいです。

毎日色々なことに挑戦する娘を、ヒヤヒヤしたり、ちょっと面倒だなと思ったりしながら
後押ししていることが間違っていなかったのかなあと、ただただうれしい限りです。
やりたいことをなんでもやらせているとワガママになると言われたこともありますが、
私は子供のうちくらいはやりたいようにやればいいと考えています。
そんな密かな自分の考えを後押しして頂いたような気がして、
本当にありがたい気持ちでいっぱいです。

* * *

ただ、あの時は気持ちに余裕があったのでわたしのいい面をみていただいたのですが、
実際はそんな上出来な親ではありませんよ…
どの子もそうだと思いますが、生まれつき悪い子など存在せず、
周りの大人が自分の都合で扱いやすい子をいい子、面倒でてがかかる子を悪い子というふうに接してしまい、結果、そういう方向に成長してしまうんだと思っています。

ですから自分の都合とは関係なく、どんなことでも受け止めてあげたい、という希望を持ちつつも、こちらに余裕がない時は、つい大きな声で怒ったりしてしまい自己嫌悪に陥ることもしばしばです。

子育てをしていると、自分の器の小ささが嫌という程身に染みます。
私ができた人間なら、この子達はもっと素晴らしい成長を遂げられるかもしれないのにな、と。
でも、完璧な親はいないしな~と逃げつつ子育てしているので、
今回のように第三者の視点、しかもプロの方からお声がけをいただけて
少しだけ自信が持てそうです。

本当にありがとうございました。
これからもブログ、読ませていただきますね^_^
そしてまたお目にかかれる日を楽しみにしています。

***

ママの真っ直ぐな気持ちが伝わってきますよね。
悩みながら、一生懸命。
素敵なママだなぁと思います。
そしてきっと、親っていうのは、多くの人がこんな気持ちなのでしょうね。
すごいことです。

りーちゃんママの言うとおりだと思います。
完璧な親なんていませんし、完璧な先生だって、完璧な大人だっていません。
僕もデコボコだらけです。

だからって、完璧なふりなんてしなくていいし。
無理して完璧になろうともしなくていい。
僕はそう思います。

そのかわりに、親も、家族も、園や学校も、地域も、それぞれが完璧じゃないことを素直に受け入れて、みんなで力をあわせていけばいい。
そしたら、誰がいっそう豊かな時間を過ごせるかって、それはもちろん、子どもたち。
一人の、一つの完璧な支えよりも、ずっとずっと、出会いと世界が広がっている。

完璧じゃないからこそだと思います。

親Aさん、Bさん、保育士Aさん、Bさん、学校の先生Aさん,Bさん、地域のAさん、Bさんetc
人が違えば、みなそれぞれ、子育てや保育・教育に対する細かな考え方や方法にはたくさんの違いがあるのでしょう。だけど、

子ども達が幸せに育ってほしい

ということだけは、きっとどの大人も一緒です。

それならその思い、ただ一つを根っこにして、
それぞれが、完璧じゃないことを受け入れて、穏やかにつながれたら、
どんなに優しい場所や時間が生まれるのでしょうね。
考えただけでも、ワクワクしてきます。

そして。
じゃあそのつながりをどうやってはじめるのかっていったら、それは
りーちゃんママのメッセージ。

「わたし、完璧じゃないのよね。」

って素直に言っちゃうことなんだと思います。

「私も。」「僕も。」「私たちもです。」

なんて言いながら、力をあわせていけたらいいなぁ。

りーちゃん、りーちゃんママ、親子そろって素敵な気づきを本当にありがとうございます(*^^*)
またいつだって応援にいきますからね♪
絵の具や工作の道具をいーっぱい持って。
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by doughnut-official | 2013-10-31 18:01 | コラム・エッセイ | Comments(2)

「再会できる場所」

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さて、今回は毎月恒例となります、ララガーデンさんでの親子工作ワークショップの模様から。ハロウィンが近いということで、みんなにはお化けに変身してもらいましたよ。
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そこで、今日は嬉しい再会が二つもありました。
一つは以前ここでも紹介した、少年野球をはじめたため、今後は雨のときしか来れない
と話していたAくんです。

会場を準備していると、
「ひでちゃん!!」
聞きなれた声に呼ばれ顔をあげると、目の前にはA君とママさんの姿が。
「あれ!?今日これたの!!野球は?」
僕が聞くと、
「今日は試合だったんだ!午前中で終わったから急いできた!」
とA君。
「お昼ごはん食べてから、二回目でくるね。」(ここでのワークショップは一日二回開催)
聞けばお昼も食べずに、まずは会場へとかけつけてくれたそうです。
奥を見ると、少し離れた柱のところからパパさんもニッコリと微笑み挨拶をしてくれました。

A君にはもうなかなか会えないだろうと思っていたので、こんなにも早く会えたことが嬉しくて。
野球をはじめても、この時間を好きで遊びにきてくれることが嬉しくて。
そして、そんなA君の思いを叶えてくれるママさんとパパさんが素敵で。

僕はワークショップのはじまる前から胸いっぱい、幸せな気持ちにさせてもらいました。
A君、今日もありがとう。

**************

そして、もう一つの再会はBちゃんです。
Bちゃんは僕が夏にやっている親子キャンプに参加している小学生の女の子です。
そんなBちゃん彼女が住んでいるのはなんと茨城県。電車とバスを乗り継ぎ、ここまで来るのに二時間もかかったそうです。

そんな道のりだったにも関わらず、ワークショップのあとBちゃんが言いました。

「来月来るときはね、一回目でみんなが何を作ってるか、外から様子をみて、
そのあと自分の中でアイデアを考えて、二回目で参加しようと思う!」

来月も来る気満々でいてくれるのでした。
もちろんその隣にも、その思いを受け止めてくれるママさんの存在がありました。

Bちゃん、来てくれてありがとう。
来月も楽しみにしていてね。

******

AくんやBちゃんの他にも、ここには毎月楽しみに来てくれている親子さんがたくさんいて、そうすると顔が見れるだけで、嬉しい気持ちにさせてもらいます。
ワクワクを届けるのが僕の仕事なのですが、僕もいっぱいワクワクをいただいています。
参加してくれた皆さん、そしていつもご依頼くださるララガーデンさん、今回も本当にありがとうございました(*^^*)

大型の商業施設が、「はじめまして」といって出会い、「またね」といって別れられる、
そして「久しぶり」といって再会できる場所になる。
こうして振り返ってみると、この感覚はなんとも不思議で、でも、それでいて自然です。
地域のコミュニティ力の低下は様々な視点からいわれますが、どんな場所にもまだまだ可能性はたくさんあるのでしょう。
僕自身、これからも一つ一つの出会い、一つ一つの企画と丁寧に向き合いながら、模索していきたいと思います。
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by doughnut-official | 2013-10-29 18:13 | コラム・エッセイ | Comments(2)

「自分の好きなことができる場所、できる時間、受け入れてくれる人」

今日は、栃木県はこころねさんの主催する土曜楽校からのリポートです。
ここでは、みんな一人ひとり、自分の好きなことをして一日を過ごします。
基地を作る。
サッカーをする。
本を読む。
魚を見つけにいく。
仲間とおしゃべりをしながら、自分の考えを整理する(親が中心)etc

その中で僕は工作部門とおしゃべり部門の担当として呼んでいただいています。
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自分の好きなことをして過ごす。
そのイキイキとした子ども達の、自信に満ち溢れた姿を見ていると実感することがありました。
それは、好きなことを好きといえて、その好きなことができる場所、人、時間。
これがいかに大切かということ。

なぜなら、好きなことを好きなようにできるということは、
言い換えれば、自分のことを「好き」と思えるということだからです。

そこで、一つの疑問も浮かびました。

この子達は、好きなことをいつまで素直に好きといって、それをやっていられるのだろうか?

色々な子ども達に出会わせてもらっていると、好きなことを好きといえなくなっている子というのは、少なくないように思います。
なぜか、

恥ずかしいから。
うまくできないから。

です。
その言葉の背景に見えてくるのは、他者との比較や評価なのでしょう。
ほんとは好きだけど、自分はA君よりもできないから、
ほんとは好きだけど、みんなにおかしいって言われると恥ずかしいから、
そんな理由で好きといえなくなる。できなくなる。

ほんとは好きなのに、できない。
こんなにもったいないことはありません。

そもそも「好き」が評価されるっていうのがおかしいことです。
「好き」という本人の気持ちに誰かが正・誤をつけることはないんですから。

だけど、その好きという個人的な気持ちが、集団の評価とすり替えられてしまっている。
子ども達は自分自身で、すり替えざる得ない気配が、どこかに流れている。

このことを僕ら大人はもっともっと丁寧にみていかなければいけないように思います。

小・中学校が前期終了となったこのタイミングで。
中学生の仲間、保護者の仲間と一緒に、学校の成績をテーマに話をしながら、子ども達のありのまま姿を見て、考えさせてもらったことでした。

繰り返しになってしまいますが、
好きにこだわれる場所と時間があり、その空間を認めてくれる人がいること。
それは自分自身を好きだと思える、場所と時間と人がいるということ。
そんな空間が家や学校、公園や児童館、街の中にあることは、とても大切なことだと思います。

こころねの皆さん、今回もありがとうございました(*^^*)
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by doughnut-official | 2013-10-17 18:06 | コラム・エッセイ | Comments(4)