ブログトップ

DONUT WORKSHOP REPORT

donatsu.exblog.jp

カテゴリ:コラム・エッセイ( 72 )

「同じメニューでも、味次第で好きにも嫌いにもなる。」

f0148974_22403563.jpg
新年度も少しずつ動いてきましたね。

僕の方も、少しずつ色々始まってきました。

先週からは、短大の授業がスタートしました。
学生たちと関わらせてもらうと、学校における学びとは、先生の役割とは「何か?」ということを改めて考えさせてもらいます。

そのうちの一つを、いきなりですが料理の話から。

カレー
麻婆豆腐
お味噌汁

どれも僕が大好きなメニューなのですが、中には美味しくないものもあります。
それは好みに合わない味付けや、どうしたって料理を失敗したものです。
それでは美味しく食べられません。

そして、たとえば仮に、僕が生まれてからこれまで、ずーっと美味しくない「カレー」しか食べたことがなかったとしたら、僕は「カレー」という料理を「まずい」と誤解してしまうでしょう。

これに似たことが学校では、先生が気をつけていかないとおきるなぁと思っています。

国語、数学、理科、社会、、、(僕の場合は、図工)
もっと大きい枠で言えば学習。

これらをメニューと考えた時に、子どもたちは
先生が美味しそうに調理したものに出会うのか。
それとも手抜き料理をしたものに出会うのか。

それによって、子どもたちの学びに対するイメージは大きく変わると思います。

「学ぶ」って面白い。もっとやりたい。

「学ぶ」ってめんどくさい。やらなきゃいけない。

料理しだいで、どちらにもなれる可能性を持っています。

だからこそ、それぞれの好みは別としても、
僕としては、自分にできるせいいっぱいで、
美味しそうに出会いを作っていけたらと思います。

その人にとって本当は美味しい学びを、こちらの力不足で、「まずい」「つまらない」「めんどくさい」と誤解させないようにと思います。

新年度もがんばりましょう!


[PR]
by doughnut-official | 2017-04-20 22:37 | コラム・エッセイ | Comments(0)

「6歳との企画会議」

f0148974_07440958.jpg

コトリエ幼児クラスからのリポートです。

みなコトリエに着くなり、それぞれの工作を始めたので、
それならばと、僕も先日報告した雑誌の造形ページのアイデアを、子どもたちの中に混ざって、ノートを広げて考えていました。

すると、自分の工作にひと段落したりーちゃんが興味をもって聞いてきました。

「なにしてるの?」

「いま、水を使った工作のアイデアを考えててさ。どんなの作ったら楽しいか考えてたんだよ。」

「どれどれ?」

えんぴつをとり、僕のノートに向かうりーちゃん。

アイデアを考え、ノートに書き、そのアイデアをやったらどうなるかを二人で話してイメージを膨らまセル。さらに考え、また書き、話して、考える。それだけで気づけば30分。
もはや、ただの企画会議です。

そこから、残りのわずかな時間で、りーちゃんは一気に会議の内容をふまえた試作を完成させました。
そんなりーちゃんの反応も後押しをして、検討中だった実際の内容も確定したのでした。

コトリエに、先生はいません。
集まっているのはみんな、「作ることが好きな人」です。
だからこそ、ここに生まれる、正解や優劣のない空気、
一人一人が対等なムードを、これからも大切にしていければと思います。

りーちゃんとの会議、そして試作品が最終的にどんな形になったかは誌面をお楽しみに。





[PR]
by doughnut-official | 2017-03-08 07:45 | コラム・エッセイ | Comments(0)

遊びの価値についてとアクティブラーニングの雰囲気について少し

f0148974_9554049.jpg
子ども達の考える、作る、遊ぶはつながっています。
この三つを言い換えるならば、想像し、具現化し、現実化する、活動ともいえるでしょう。
そんなことを思う、コトリエの小学生クラスからのリポートです。

*****

「考える、作る、遊ぶはつながっている」

コトリエ小学生クラスのリポートです。
最近、三年生の彼が毎週続けているのがボードゲームの制作。

迷路、すごろく、サイコロ、ルーレットetc

自分が経験した遊びの様々な方法を活用しながら、ゲームを作っています。

市販のゲームとの決定的な違いは、ゲームバランスの甘さ。

そして、それこそが面白い。

最初は、ただコマを強くしよう、ただ面を難しくしよう、そんな思いで作っていました。

でも、実際に遊んでみると、というか試してみると、ただ強く難しいだけでは、つまらないことに気づきます。

そうしてはじめて、修正し、少しずつルールが洗練されていく。

これって、ゲームを作ってる大人達がやってることと、本質は変わらないように思います。

売り上げでも、評価でもなく、「自分が面白い」だけのために、こんな高度なことを真剣に、それも力まず平然とやるのですから、すごいなぁと思います。

いくら時間があっても足りないわけです。

*****

まだまだ、「遊び」は「勉強」より重要度の低い活動だと捉えている人が、実は教育や保育の現場にいる人ほど多いように感じます。
ですが、遊んでいる中で、起きている知的な活動レベルの高さ、そしてその質の多様さ。
さらには、それを評価のため、利益のため、ではなく、自分の満足のためだけに続けられるすごさ。
それらは、結果型、そして他者評価型の勉強ではなかなか培うことはできないように思います。
現場は、もっともっと見直した方がいいと思う、子ども像と遊びと学習観です。

p.s.
一方では最近こそ、アクティブラーニングという言葉が多用されていますが。そもそも、そういう言葉の取り入れ方が従来の勉強的というか、そんなことを思ったりもします。

わざわざアクティブラーニングというまでもなく、保育も、教育も、研修で教わったり、上や有名な研究者が言うから取りいれるのではなく、ちゃんと目の前の子どもたちのことを見ながら、育つことや、 学習について、考えたり、解釈したら、「学習って、最初からそういうものでしょう」と思います。

もちろん、あえてわかりやすく言葉にすることで、より社会が変化していくように、という意味で取り入れられているとも思いますし、必要なことなのかなとも思いますが。

安易に、至る所で、アクティブラーニング、みたいな雰囲気は、アクティブラーニングの本意ともずれているんじゃないかと思っています。
アクティブラーニングという言葉を聞くときに
「学習ってほんとはそういうものだよね」
という声より
「これからは、アクティブラーニングだ!」
っていう声が多いように感じて、なんとも。

アクティブラーニングという定義によって子どもたちがそれぞれ主体的に学ぶ環境が充実していったら、それは面白くなるだろうなぁと思うからこそ、違和感を追伸しました。
[PR]
by doughnut-official | 2017-01-30 09:55 | コラム・エッセイ | Comments(0)

「コミュニティのはじまりは一対一の出会いから」

f0148974_953372.jpg

今日はララガーデン川口にて親子の工作ワークショップのリポートです。

「ひでちゃん!」

準備をしていると声をかけられ、見てみると毎回来てくれるお客さんであり、このワークショップで友達になった男の子。

「これあげる。」

といって渡してくれた紙袋を開けると、
中には彼の作品が入っていました。

お家で、今日のお土産にと、作ってきてくれたんだそうです。

ショッピングモールのイベントがきっかけで、こんな風に個と個の出会い、関係が生まれるって、すごく嬉しいことです。

*****

こどもの環境とか、街の風景っていうのを考えたときに、

例えばおもちゃだったら、細部まで作り込まれたおもちゃやデジタル映像のすごいゲームはたしかに面白いけど、もう一方で、本人が想像したり工夫する余白はやっぱり少なくなっているよなぁと思いますし。

お買い物だったら、アルバイトやパートさんが中心のお店なんかだと、コミュニケーションが、店員さん、お客さん、お互いに通り一遍で、そこにその人個人の顔の見えるようなやりとりは少なくなってきているなぁと思いますし。

場所についても、例えば、今の時代ドラえもんのように空き地で遊んでいたなら、
「ここは誰の土地だ?」
「誰に許可とったんだ?」
なんて、たしかにもっともではあるのだけど、なんとも隙のない怒られ方をするムードがあって。
時には地域の大人に怒られることの価値も含めて、子どもの遊ぶ場所は減ってきているよなぁと思いますし。

何事も便利になり、システムが完成している(ように見えるだけかもしれませんが)からこそ、もどかしさを感じるのも正直なところです。

ですが、今日の彼のように、
ここがショッピングモールであっても、
はじまりはイベントのお兄さんとお客さんであっても、
そういうの関係なく、
出会い、関わりを通して
ちょっと仲良くなったり、
ちょっと特別な場所になったり、
環境は、どうとでもなるのだろうなぁと思わせてもらいます。

時代を問わず、自分が良いなぁと思うことは大切にしながら、今、目の前にある環境に対して前向きに、できることを一つ一つやっていこうと、あらためて思いました。
[PR]
by doughnut-official | 2016-03-13 09:07 | コラム・エッセイ | Comments(0)

「好きなものは、ただ好きでいい。」

f0148974_1121499.jpg
今日は越谷のフリースクールりんごの木さんにて、毎月一回担当させてもらっている、ワークショップでした。

参加したメンバーの中に、今日がはじめましての11歳の女の子がいました。

「わたし、絵、下手だけど。描くのは好きだよ。」

そんな枕から、とりかかりはじめた彼女。

最初は、少し緊張しているようでしたが、進むにつれ、どんどんとノっていき、しまいには鼻歌を歌いながら、作っていました。

完成した作品を眺め、

「これ、家に飾ろう。」

といってそうっとカバンにしまう姿は、なんとも嬉しいものでした。

鼻歌って、とても良いなぁと思います。

自分を表現する時間が、リラックスしてて、楽しくて、それでつい出てきたんですもんね、鼻歌が。

おそらく、最初の自己紹介のときに
「わたし、絵、下手だけど、、」
と言ったのは、自分が表現することに対する、周りの見え方を意識していたから、でてきた言葉なのだろうと思います。

だけど、鼻歌を歌ってるときっていうのは、もう、たぶん周りがどうかということは、彼女の意識の中になくなっている。
自分の表現の時間を、自分のものさしで、満喫していることのあらわれなんでしょうね。

*****

そこで、あらためて考えることがありました。

それは彼女の最初の一言。

「私、絵下手だけど、描くのは好きだよ。」

これって、本当は、

「私、絵描くの好きだよ。」

でいいんじゃないかなぁと思います。

「下手だけど、」

なんて、前置きなく。

「私、絵描くの好きだよ。」

だけで。

じゃあなぜ、彼女は前置きを置いたのか。

それは、気にしなきゃいけないと、刷り込まれてるからなのだと思います。

表現に対する、他者からのうまいへたという評価を。

本人の中で、思うように表現できた、できなかったは、もちろん大切な感覚です。

だけど、それは他者からの評価とは全然意味が違う。

これがもし、彼女がイラストレーターとして活動しているのであれば、
それは、仕事なわけですから。
クライアントの好みや、
クライアントから見たうまいへたの視点を考えるというのはすごくわかります。
だけど、それは、イラストレーターの場合に限ってのことなのだと思います。

つまり、見た目には同じ「描く」という行為であっても、
自分を表現することと、
誰かの要求に応える・評価を得ることは、

もともと質が違うということです。

(時には仕事であっても、自分の表現したい感覚と、クライアントの好みがピッタリ重なる時もあるでしょうが。これは自分の表現したい世界を、気にいってくれた人がクライアントになったという関係性が基本でしょう。)

表現のはじまりと終わりは、あくまで、本人の中にある。

このことを、わかっていないままに、
子どもの表現に対して、評価するという立場をとっている大人が、保育や教育の世界には、本当に少なくありません。

おぉ、よくできたね。

これは、だめ。

ここは、もっとこうした方がよくなるよ。

なんて。
先生という立場だけで、自分の評価やアドバイスに何の疑いもなく、言ってしまう。

それは、しだいに子ども同士の中にも、ひろがっていき、だんだんと刷り込まれていき、咄嗟の反応として、身体に染み込むのだ思います。

他者からみたうまいへたの評価が。

*****

フリースクールという場所は、色んな理由があって、子どもたちが集まってきますが。

僕が出会う限り、その理由の一つには、他者評価に対する疑問というのがあるように思います。

そんな意識を、鼻歌にのせて、フワリと吹き飛ばす、彼女は、なんとも穏やかで、素敵です。

だけど、そんな彼女のパワフルさに甘えず、子どもの学びや、形について、丁寧に考えていきたいなぁとも思います。

そして、僕自身の好みとしては、

「私は、絵描くの好きだよ。」

だけで、いいムードが、子どもたちの環境の中に、もっともっと広がっていけばいいなぁと思います。
[PR]
by doughnut-official | 2016-02-14 11:21 | コラム・エッセイ | Comments(0)

「子ども達の表現に向かう姿勢を甘くみない」

f0148974_9313391.jpg


新年度もあっという間に、5月に突入。
みなさん少しずつ慣れてきたところでしょうか。

僕のほうも、保育園や幼稚園でのワークショップがはじまりました。
今年は年間でお伺いするところも数園ふえ、新たな出会いにワクワクしています。

今週は連休のイベントや保育園でのワークショップあわせ、約500人の子ども達と楽しい時間を過ごさせてもらいました。ホームの越谷からはじまり、お隣は春日部、茨城はつくば、栃木は宇都宮、日光、そして川崎と各地での出会いに感謝です。
その出会いの中で、年度のはじめに、あらためて確認させてもらったことがあります。それは、

子ども達は基本的に、自分で「やりたい」と思ったことには、どこまでも誠実に行う人達だということです。

造形活動の子ども達を見ていると、
作品ができた、作品ができなかった、その結果に関わらず、
もっといえば、造形活動をする・しないにも関わらず、
無駄な時間を過ごしている人なんて一人もいなくって、
むしろすべての子ども達が、それぞれの実りある育ちの時間を過ごしていると思います。

造形活動は形が残る活動なので、つい目に見えるものにとらわれがちですが、形に残らないもの、目にみえにくいものの中にも、魅力的なことはたくさん。

子どもの作品が素敵なことと同じくらい、
失敗してぐしゃぐしゃにした紙に残っているその子の熱や、
悔しそうな表情、
それでももう一回描こうとする、描きたいと思えるエネルギー、
「やっぱりだめだ!今日はもうやめる!」と自分で納得してやめる判断、
どれも良いなぁと思います。

そんな誠実な姿にふれていると、
この人達は、どんな大人に育っていくのだろうとワクワクです。

子どもは何においても未熟だ

と甘くみていると、(もちろん大人から子どもに教えることもあると思っています。)
子どもがやらないことや失敗すること、やめることに対して、
なんでもかんでも、大人が関わって改善しなきゃなんて思うかもしれないけど、

子どもは誠実だ。

っていうのを前提にして、そういう姿を見てみると、
きっと、それまでとは違った魅力がたくさん見えてくるように思います。
おすすめです。
[PR]
by doughnut-official | 2015-05-10 09:35 | コラム・エッセイ | Comments(0)

「育ちは続いている」

f0148974_11274269.jpg
今日は僕の小さな友人の話から。

4年前のことです。
当時5歳だったトモくんは、ワークショップの時間に、空き箱と色紙で動物園を作りました。
f0148974_11282860.jpg

僕がその動物たちを、園の外に出して写真を撮っていたら、トモくんは言いました。

「写真撮ったら、ちゃんと動物園の中に戻しておいてね。夜になって脱走しちゃうといけないから。」

彼が、自分の作品の世界に対し、どれほど豊かに想像を膨らませているかというのがひしひしと、伝わってくる一言でした。

****

そのさらに一年前のある日、
園から依頼を受けて、園舎のホールの入口に一週間かけて、壁画を描かせてもらっていたときのことです。
f0148974_1129680.jpg
f0148974_11295621.jpg


僕が描いた浮島と、そこに生えている木、海を泳ぐ恐竜をみながら、当時4歳のトモくん(恐竜図鑑が愛読書だったらしい。)は言いました。
f0148974_11342131.jpg


「プレシオサウルスは、この島の葉っぱが好きなんでしょ。食べにいくとこだね。」

これもまた
彼が、一つの絵に対して、
どれほどの想像力をはたらかせ、
物語をつくりだしているかということが伝わってくる一言でした。

と同時にこのやりとりは、
僕自身がそれ以降自分の作品を描く上での意識を変えてくれた出来事となりました。

なぜかというと、
お恥ずかしながら、その当時、僕はそこまで考えて、絵を描いてなかったんですね。
絵を描くのが好きだし、楽しいから、
なんとなく、
見た人も色々な想像したらいいな、
なんて漠然と思って描いていたんです。

でも、彼はそんな僕の絵の情報をフルに使って、
自分の解釈で想像を膨らませていきました。

その姿に、絵を描くこと、絵を見ることの面白さをあらためて気づかせてもらいました。

一枚の紙のうえに
何を描くか
何を描かないか

小さな何かを描くにしても、そこに自分のどんな想像があって、
でももう一方では、描く側の想像なんておかまいなしに、
見る人は見る人で自由にそれを解釈する余白があって、

自分の描くことに個人的な責任をもつと同時に、見る人に任せる面白さ

そんなことを教えてもらったように思います。

当時一週間かけて壁画を描かせてもらっていたのですが、
その間の子ども達と絵を見ながらの会話によって、たくさんの学びをもらいました。
f0148974_11382326.jpg
f0148974_11383875.jpg
f0148974_11385263.jpg


おかげさまで、それ以降、僕は絵を描く仕事もやらせてもらうようになりました。

と、少し話がそれてしまいました。

トモくんの話に戻ります。

****

そうして三年、四年が経った、先日のこと。

保育園にワークショップにいくと、
卒園後も学童保育クラスで園に来ていたトモくんに会いました。
f0148974_11393388.jpg


トモくんは僕の隣に座って、話しだしました。

「今日、ぼく学校でハチミツつけられちゃったんだよ。」

ズボンの汚れを見せながら言うトモくん。

僕は、給食の時間に自分でこぼしたか、
友達にでもこぼされたかななんて思いながら、

当時のトモくんの想像が豊かなことを思いだし、
言葉のごっこ遊びをしかけてみました。

「あらら。クマにでもつけられた?」

すると、ともくん。

「そうそう。それが透明な色をしたクマでね。」

ん?透明のクマ?

急に話がわからなくなってしまった僕。

その様子を見てヒントを出すトモくん。

「そのクマはね、糊の入れものの形にも見えるかな。」

給食の時間だと思って聞いていたから、
なぜいきなり糊の容器がでてきたのか、ますますわからなくなってしまった僕。

すると、さらにヒント。

「紙版画の時間にね。糊の入れものみたいなクマにさ、つけられちゃったんだよ。」

ん?
糊?
紙版画?

そうです!
ズボンにこぼれたのは、はちみつじゃなくて糊だったのです。

「えーー!!それって、トモくんが糊こぼしただけじゃん!」

やっと状況を理解し(遅い)つっこむ僕。

「ふふふふふ。」

したり顔で笑うトモくん。

僕は、トモくんがはちみつをこぼしたというから、
勝手に給食の時間だと思って
こちらから、ごっこ遊びをしかけたつもりだったのですが

そもそも、

「はちみつ」

という話の切り出しから、
ごっこ遊びが始まっていたんですね。

見事にやられました。

くやしい。笑

トモくんの豊かな想像力は今も健在なのでした。

******

子どもの育ちをみるとき、
大人は、その節目に、乗り越えるべきゴールを作りがちです。

年少から年中へ。

年中から年長へ。

年長から小学校へ。

一年生から二年生へ、、

歳の変わる節目に、

その都度、

これができなきゃ。

あれができなきゃ。

とゴールを作ります。

そして、ついついその時期までになんとかゴールをさせようと、
子どもをがんばらせすぎてしまうことも、たまにあったりします。

たしかに目安としてゴールがあるほうが、
わかりやすい性質の育ち、環境のサポートというのもあるのかもしれません。
ゴールがあることで、発揮する力もあるかもしれません。

でも、ゴールなんてなくていいことも、
子どもの育ちの中には、
というより、生きることの中には、
たくさんあるのだと思っています。


なんでゴールがなくていいのかというと、
それは、節目に関係なく

ずっと続いていくことだからです。


今回のトモくんもそうです。

彼が想像を豊かに巡らせ、
言葉や形で表現する楽しみは、
僕が出会った4歳の時から
いや、たぶんそれよりも前から
3年生目前の今まで、

ず~っと続いています。
そしてきっと、明日からも続いていきます。

そこにゴールはないんです。

****

この視点は、例えば造形の時間にもあてはまります。
子どもの作品が完成することがゴール、
つまり活動の終着点だと思っている先生もいるでしょう。

でも、それもよく子どもを見てみてください。
もしその造形に熱中していたなら、
きっと子ども達の想像や表現したい思いはまだまだ続いているはず。
ここにもゴールはありません。

****

続いているんです。

考えることや表現することは。

きっと、生きている限りずっと。


だから、節目にゴールを作ることで、
子ども自身がより楽しく、より嬉しくなるようなことはいいのでしょうが、
あくまで、それはものさしの一つであって、
そのゴールにしばられすぎないようにもしたいものだと思います。

そうじゃないと、
子ども達に一方的なゴールを越えさせようとするあまり、
これからずっとずっと続いていくはずの素敵な芽を
摘んでしまうこともありますから。

進級、
卒園、
進学、
卒業、

節目の時期だからこそ。
節目があることで、ますます魅力的になっていく子ども達をお祝いすることはもちろんですが、
もう一つ。

年少と年中も、
年長と一年生も、
6年生と中学性も、

「そんなの、ただ、3月31日から4月1日に、一日変わるだけの話だよ。」

なんて気楽に考えて、
子ども達ひとりひとりが持ち続ける魅力を、
穏やかにキャッチして、共感し続けることを大切にしていきたいと思います。

お別れまで残りわずか、

ますます豊かな時間となり、

そして続いていきますように♪
f0148974_11474249.jpg

[PR]
by doughnut-official | 2015-03-13 17:18 | コラム・エッセイ | Comments(0)

「親子の時間 スマホの時間」

f0148974_20163660.jpg
先日、近所のお茶屋さんで、
僕の隣の席にパパ・ママ・小学校前の兄妹
といった感じの家族が座りました。

お兄ちゃんはパパと、
妹はママと座ると、
すぐに、それぞれのコンビでスマホを眺めはじめました。

聞こえてくる音の感じからすると、
どうやらパパがやってるのはロールプレイングゲーム
(僕も子どもの頃好きだったやつなのでわかりました。)

ママがやっているのは、LINE(これは子どもが「ラインライン」といっていました。)

家族の会話はかわされていますが、目は合いません。

この光景に、ドキリとしました。

*****

スマホがひろまって、

今までは家でしかできなかったことのいくつかが、
どこでもできるようになりました。

それはたしかに便利なことですが、
一方で、やはり注意の意識というのももっていたほうがいいと思います。

たしかにスマホがあれば、
どこでもゲームができるし、
仕事もできるし、
たくさんの情報が得られて、
友人や多くの人とつながれるのかもしれないけれど、

例えば、こういう家族のお茶の時間。

家族で、お店でお茶を飲む時間ならではの価値というのでしょうか

(うちの家族の価値観なんだから他人にとやかく言われる筋合いはないよと言われてしまえばそれまでなのですが。もちろん本人にいうわけではありませんし。笑 
あと、もしかしたら、うちはお茶屋さんでだけスマホ解禁で家の中は禁止なのよ。
っていうこともあるかもしれないですし。これはあくまで一つの例として読んでください。)

家の中での家族団欒とはまた一味違う雰囲気とか

その雰囲気や気分の中でこそ生まれる会話とか

あるいは、ぼーっと景色を眺めるパパと、それを眺めるお兄ちゃんとか

そんな様々なやりとりの機会を、
スマホで遊ぶことによって、なくしてしまっているように思えるのは、

僕の感覚が古いのでしょうか。


親子でスマホやタブレット。
隣同士か、向かいあっているのだけど、お互い目線は画面に向いている。

それはそれで楽しいのかもしれないけど、

僕には、それよりも、
たとえお互いが何もしていなくても、
ただ向かい合ってなんとなく顔を眺めてみることのほうが、豊かな気がしてなりません。

***

子どもの気分をごまかすのにも、スマホはとても便利です。
だけど、それも基本的にはごまかさなくて、いいのではと思います。

例えばお買いものの最中、子どもが飽きて、ぐずったとします。

スマホを渡せば、ご機嫌になるし、親も楽、というのはあるかもしれないけど、

その瞬間、
機嫌をよくする代わりに失くしてしまう、
わが子の経験というのもあるように思います。


家族でお買い物中、
自分が飽きちゃって、
親にぐずってみるのだけど、どうしようもなくて、

でもたしかに、つまんないけど、
親がお買いものをしたいんだなって気持ちも、それはそれで感じていて、

でもやっぱりぐずりたくなっちゃて、

こんな葛藤をいったりきたりしながら、
ちょっとずつ、ちょっとずつ、
自分の気持ちと他人の気持ちに折り合いをつけていく。

たまには親のほうから
「今日はちゃんと付き合ってくれて、ありがとね。」
なんていってお菓子を買ってくれたり、

いつも期待していると、
「今日はダメよ。」
なんて言われてしまったりもして。

そういう思い通りにいかない場面、
自分ではどうしようもない状況、
予想外にやってきた嬉しさ、
期待感、

こういうことを感じる時間は、
けっして楽しいだけの時間ではないのだけど
それもある意味一つの親とのお買いもの時間の中にある価値で、
豊かな育ちにつながる時間といえるのではないでしょうか。


「そうはいっても本当に大変なのよ!」

というパパ・ママもいるでしょう。
僕も「だからスマホはダメだ!」
なんて否定しているわけではありません。

大事なのは、大人がどれくらい意識をもっていて、
バランスをとれるかということではないでしょうか。

例えば
「ここは、どうしてもぐずったら周りにも迷惑をかけてしまう」

という場面だったら、スマホでなんとかするのもアリかもしれませんし。

でも、一回その手をつかったなら、

また別の場面では、
「この場所は、この子がぐずっても周りも受け入れてくれる場所だから、ぐずらせときましょ。」

なんて思って、子どもにはたっぷりぐずって、モヤモヤした時間を過ごしてもらって、
バランスをとる。

******

楽しいだけが、豊かな時間ではない。

暇をつぶすよりも、暇のほうが、ずっと豊かな時間じゃないか。

そんなことを思いつつ、

日々の中で

スマホを使うのか。

スマホに使われるのか。

僕自身、いつも確認しておきたいことの一つです。
[PR]
by doughnut-official | 2015-03-03 20:16 | コラム・エッセイ | Comments(0)

「今という瞬間を放棄するわけがない。」

f0148974_18332161.jpg
子ども達と造形活動をしていると、
中には一見、手を動かしてないからという理由で、
「何もしていない」
「わかっていない」
というように見られてしまうということもあるようです。

そして、そんな子を前にすると、
周りが活動しているから余計に目立ちやすいというのもあいまって、

こちらが何かはたらきかけなきゃって、
不安になる親や保育者も少なくないように思います。

でも、僕はそういう場面、
のんびりと、楽しみに、待っていればいいのではと思っています。

だって、
子ども達が、何もやっていないわけがないですから。

何を描こうか(作ろうか)じっくりと考えていたり、

少し慎重に周りの様子を伺っていたり、

今日はあんまり気がのらないなぁ。
だって他に気になる事があるんだもの。
今は表現どころじゃないのよ。
なんて言葉にはしないけど、思いふけっていたり、

手は動かしていなくとも、自分の今をやっている。

ですから、表面的には同じように見えても、
その実、子ども一人ひとりの全然違う姿があるように思います。

もちろんその姿の中には、大人の直接的なサポ―トがあることで、
いっそうイキイキ活動する子もいますが。
それだけじゃなくて、色々な姿があるだろうということで、

直接大人が関わる以外にも、
色々な距離感、コミュニケーションがあると思っています。

***

今日もそうでした。
今日は、埼玉県は草加市内の保育園にてワークショップ。
f0148974_18493736.jpg

色紙を切っては色々な形に見立て、料理を作って遊んでいたのですが、

一人の女の子は、真剣な面持ちで、何かを考えているようでした。

なので、僕と担任は、「今日は少し距離をとってのんびり見てみようよ。」
と言いあって、見守っていました。

するとしばらくして、
他の子ども達が自分の作った料理で遊びだし、
自分の周りに他の子も少なった頃、
スッと作りはじめたのでした。

f0148974_18342549.jpg


結局、彼女はお昼ご飯のギリギリまで一人で作っていました。

f0148974_18484654.jpg


そんな彼女の最初の姿も、

もしかしたら、他の子がいる中で自分が表現をすることにどこか不安を感じて、
安心するまでの準備をしていたのかもしれないし、

あるいは、はじめは他のことを考えていたけど、
周りの友達が楽しそうに遊んでいる姿を見て、やっぱりやろうと思ったのかもしれないし、

あるいは、ただただ、じっくり考えていただけかもしれないし、

はたまた、もっと単純に、
私は一人でゆっくり作りたいのよ。と思っていただけかもしれないし、

まだまだ想像される理由はたくさんあって、

その本心は、彼女にしかわからないことですが、

彼女は自分で、今という瞬間の自分の過ごし方を決めて、その連続をめいっぱい満喫していたように思います。


帰り際、これまたみんなが僕から離れていった後、手をギュッと、挨拶をしにきてくれました。

*****

子ども達の様子を、
パッと見の表面的な行動で判断することなく、
もっと丁寧に想像していきたい
(もちろんその想像が、その子の真意とあっているかはわかりませんが)
と思うと同時に、
それ以前に、

子どもたちが、
好奇心のかたまりのような人たちが、
何もやっていないわけがない。

言い換えると、

「今」を放棄するわけがない。

そんな風に子ども自身の力を信じるところから、
子ども達の姿を捉えていきたいと思っています。
[PR]
by doughnut-official | 2015-02-25 18:52 | コラム・エッセイ | Comments(0)

「つまらない」という言葉と本音

f0148974_043281.jpg
遊びや表現活動の中で、

「つまらない」
「つまんなそう。」

などと子どもが言う場面も、思慮深く見てみたい場面の一つだと思っています。

「つまらない」

言葉に威力があるので、
大人も引っ張られそうにもなるかもしれませんが、
そこは少しふんばって、冷静に様子をみてみる。

すると、
子ども達が言う
「つまらない」の言葉の裏には、
大人の使い方以上に、いくつもの理由があるように思えます。

****

もちろん、まず一つ目としてあるのは、
そもそも自分の趣味に合わないから「つまらない」
という意味で使う時。

これは、本人の趣味ではないということですから、それ以上強制されるものでもないし、人それぞれということで、いいのでしょう。

ただ、注意深く関わりたいのは、
「つまらない」と言った理由がそれ以外かもしれない時。

それ以外というのは、

例えば、その遊びや活動の説明・方法などがわからない時

例えば、もう少しイメージが具体化されたら「面白そう!」「やってみたい!」と思える種をもっているのだけど、まだそこまでイメージがわかず、ワクワクしていない時

例えば、本当はやってみたいのだけど、周りが気になったり、自分のアイデアやアクションにどこか不安がある時

などなど、

きっと子どもの数だけ、本心は色々な理由があるのだけど、
言葉としては

「つまらない」

となる。
だから、近くにいる親や、保育者や、教員が、その言葉を言葉通りにとると、
真意を見逃したり、関わりもズレたりして、その子自身もますます不完全燃焼というサイクルがあったりします。

言葉は

「つまらない」

なのだけど、

それは時に、
本人の意思や趣味の主張ではなく、遠回しのサインで、

まだまだ本人にとって、面白くなる可能性に溢れている

という可能性にも、アンテナをはっていたいものだと思います☆


p.s.
少し質は違いますが、
「初心者のうちはつまらない。」
というものもありますよね。
ルールや型を覚えなきゃいけなかったり、感覚に慣れなきゃいけなかったりすると、最初はあんまり面白さを感じられない。

それで、本当に自分には合わないということもあるけれど、
感覚さえつかんだら一気に面白くなるものもある。

「つまらない」

というのは、子ども達が使う場面だけじゃなく、
自分自身にとっても
丁寧に注目したい感覚ですね(^^)

(写真は先日行った熊谷西小学校2年生とのワークショップです。こちらの報告はまた今度♪)
f0148974_092341.jpg

[PR]
by doughnut-official | 2015-02-17 23:42 | コラム・エッセイ | Comments(0)