子ども達の考える、作る、遊ぶはつながっています。
この三つを言い換えるならば、想像し、具現化し、現実化する、活動ともいえるでしょう。
そんなことを思う、コトリエの小学生クラスからのリポートです。
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「考える、作る、遊ぶはつながっている」
コトリエ小学生クラスのリポートです。
最近、三年生の彼が毎週続けているのがボードゲームの制作。
迷路、すごろく、サイコロ、ルーレットetc
自分が経験した遊びの様々な方法を活用しながら、ゲームを作っています。
市販のゲームとの決定的な違いは、ゲームバランスの甘さ。
そして、それこそが面白い。
最初は、ただコマを強くしよう、ただ面を難しくしよう、そんな思いで作っていました。
でも、実際に遊んでみると、というか試してみると、ただ強く難しいだけでは、つまらないことに気づきます。
そうしてはじめて、修正し、少しずつルールが洗練されていく。
これって、ゲームを作ってる大人達がやってることと、本質は変わらないように思います。
売り上げでも、評価でもなく、「自分が面白い」だけのために、こんな高度なことを真剣に、それも力まず平然とやるのですから、すごいなぁと思います。
いくら時間があっても足りないわけです。
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まだまだ、「遊び」は「勉強」より重要度の低い活動だと捉えている人が、実は教育や保育の現場にいる人ほど多いように感じます。
ですが、遊んでいる中で、起きている知的な活動レベルの高さ、そしてその質の多様さ。
さらには、それを評価のため、利益のため、ではなく、自分の満足のためだけに続けられるすごさ。
それらは、結果型、そして他者評価型の勉強ではなかなか培うことはできないように思います。
現場は、もっともっと見直した方がいいと思う、子ども像と遊びと学習観です。
p.s.
一方では最近こそ、アクティブラーニングという言葉が多用されていますが。そもそも、そういう言葉の取り入れ方が従来の勉強的というか、そんなことを思ったりもします。
わざわざアクティブラーニングというまでもなく、保育も、教育も、研修で教わったり、上や有名な研究者が言うから取りいれるのではなく、ちゃんと目の前の子どもたちのことを見ながら、育つことや、 学習について、考えたり、解釈したら、「学習って、最初からそういうものでしょう」と思います。
もちろん、あえてわかりやすく言葉にすることで、より社会が変化していくように、という意味で取り入れられているとも思いますし、必要なことなのかなとも思いますが。
安易に、至る所で、アクティブラーニング、みたいな雰囲気は、アクティブラーニングの本意ともずれているんじゃないかと思っています。
アクティブラーニングという言葉を聞くときに
「学習ってほんとはそういうものだよね」
という声より
「これからは、アクティブラーニングだ!」
っていう声が多いように感じて、なんとも。
アクティブラーニングという定義によって子どもたちがそれぞれ主体的に学ぶ環境が充実していったら、それは面白くなるだろうなぁと思うからこそ、違和感を追伸しました。