今日は僕の小さな友人の話から。
4年前のことです。
当時5歳だったトモくんは、ワークショップの時間に、空き箱と色紙で動物園を作りました。
僕がその動物たちを、園の外に出して写真を撮っていたら、トモくんは言いました。
「写真撮ったら、ちゃんと動物園の中に戻しておいてね。夜になって脱走しちゃうといけないから。」
彼が、自分の作品の世界に対し、どれほど豊かに想像を膨らませているかというのがひしひしと、伝わってくる一言でした。
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そのさらに一年前のある日、
園から依頼を受けて、園舎のホールの入口に一週間かけて、壁画を描かせてもらっていたときのことです。
僕が描いた浮島と、そこに生えている木、海を泳ぐ恐竜をみながら、当時4歳のトモくん(恐竜図鑑が愛読書だったらしい。)は言いました。
「プレシオサウルスは、この島の葉っぱが好きなんでしょ。食べにいくとこだね。」
これもまた
彼が、一つの絵に対して、
どれほどの想像力をはたらかせ、
物語をつくりだしているかということが伝わってくる一言でした。
と同時にこのやりとりは、
僕自身がそれ以降自分の作品を描く上での意識を変えてくれた出来事となりました。
なぜかというと、
お恥ずかしながら、その当時、僕はそこまで考えて、絵を描いてなかったんですね。
絵を描くのが好きだし、楽しいから、
なんとなく、
見た人も色々な想像したらいいな、
なんて漠然と思って描いていたんです。
でも、彼はそんな僕の絵の情報をフルに使って、
自分の解釈で想像を膨らませていきました。
その姿に、絵を描くこと、絵を見ることの面白さをあらためて気づかせてもらいました。
一枚の紙のうえに
何を描くか
何を描かないか
小さな何かを描くにしても、そこに自分のどんな想像があって、
でももう一方では、描く側の想像なんておかまいなしに、
見る人は見る人で自由にそれを解釈する余白があって、
自分の描くことに個人的な責任をもつと同時に、見る人に任せる面白さ
そんなことを教えてもらったように思います。
当時一週間かけて壁画を描かせてもらっていたのですが、
その間の子ども達と絵を見ながらの会話によって、たくさんの学びをもらいました。
おかげさまで、それ以降、僕は絵を描く仕事もやらせてもらうようになりました。
と、少し話がそれてしまいました。
トモくんの話に戻ります。
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そうして三年、四年が経った、先日のこと。
保育園にワークショップにいくと、
卒園後も学童保育クラスで園に来ていたトモくんに会いました。
トモくんは僕の隣に座って、話しだしました。
「今日、ぼく学校でハチミツつけられちゃったんだよ。」
ズボンの汚れを見せながら言うトモくん。
僕は、給食の時間に自分でこぼしたか、
友達にでもこぼされたかななんて思いながら、
当時のトモくんの想像が豊かなことを思いだし、
言葉のごっこ遊びをしかけてみました。
「あらら。クマにでもつけられた?」
すると、ともくん。
「そうそう。それが透明な色をしたクマでね。」
ん?透明のクマ?
急に話がわからなくなってしまった僕。
その様子を見てヒントを出すトモくん。
「そのクマはね、糊の入れものの形にも見えるかな。」
給食の時間だと思って聞いていたから、
なぜいきなり糊の容器がでてきたのか、ますますわからなくなってしまった僕。
すると、さらにヒント。
「紙版画の時間にね。糊の入れものみたいなクマにさ、つけられちゃったんだよ。」
ん?
糊?
紙版画?
そうです!
ズボンにこぼれたのは、はちみつじゃなくて糊だったのです。
「えーー!!それって、トモくんが糊こぼしただけじゃん!」
やっと状況を理解し(遅い)つっこむ僕。
「ふふふふふ。」
したり顔で笑うトモくん。
僕は、トモくんがはちみつをこぼしたというから、
勝手に給食の時間だと思って
こちらから、ごっこ遊びをしかけたつもりだったのですが
そもそも、
「はちみつ」
という話の切り出しから、
ごっこ遊びが始まっていたんですね。
見事にやられました。
くやしい。笑
トモくんの豊かな想像力は今も健在なのでした。
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子どもの育ちをみるとき、
大人は、その節目に、乗り越えるべきゴールを作りがちです。
年少から年中へ。
年中から年長へ。
年長から小学校へ。
一年生から二年生へ、、
歳の変わる節目に、
その都度、
これができなきゃ。
あれができなきゃ。
とゴールを作ります。
そして、ついついその時期までになんとかゴールをさせようと、
子どもをがんばらせすぎてしまうことも、たまにあったりします。
たしかに目安としてゴールがあるほうが、
わかりやすい性質の育ち、環境のサポートというのもあるのかもしれません。
ゴールがあることで、発揮する力もあるかもしれません。
でも、ゴールなんてなくていいことも、
子どもの育ちの中には、
というより、生きることの中には、
たくさんあるのだと思っています。
なんでゴールがなくていいのかというと、
それは、節目に関係なく
ずっと続いていくことだからです。
今回のトモくんもそうです。
彼が想像を豊かに巡らせ、
言葉や形で表現する楽しみは、
僕が出会った4歳の時から
いや、たぶんそれよりも前から
3年生目前の今まで、
ず~っと続いています。
そしてきっと、明日からも続いていきます。
そこにゴールはないんです。
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この視点は、例えば造形の時間にもあてはまります。
子どもの作品が完成することがゴール、
つまり活動の終着点だと思っている先生もいるでしょう。
でも、それもよく子どもを見てみてください。
もしその造形に熱中していたなら、
きっと子ども達の想像や表現したい思いはまだまだ続いているはず。
ここにもゴールはありません。
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続いているんです。
考えることや表現することは。
きっと、生きている限りずっと。
だから、節目にゴールを作ることで、
子ども自身がより楽しく、より嬉しくなるようなことはいいのでしょうが、
あくまで、それはものさしの一つであって、
そのゴールにしばられすぎないようにもしたいものだと思います。
そうじゃないと、
子ども達に一方的なゴールを越えさせようとするあまり、
これからずっとずっと続いていくはずの素敵な芽を
摘んでしまうこともありますから。
進級、
卒園、
進学、
卒業、
節目の時期だからこそ。
節目があることで、ますます魅力的になっていく子ども達をお祝いすることはもちろんですが、
もう一つ。
年少と年中も、
年長と一年生も、
6年生と中学性も、
「そんなの、ただ、3月31日から4月1日に、一日変わるだけの話だよ。」
なんて気楽に考えて、
子ども達ひとりひとりが持ち続ける魅力を、
穏やかにキャッチして、共感し続けることを大切にしていきたいと思います。
お別れまで残りわずか、
ますます豊かな時間となり、
そして続いていきますように♪