子どもの自由に
子どものやりたいように
子どもの気持ちに寄り添って
etc
子どもの感性や、
子ども自らが育つ力・学ぶ力を信じる
という意味で、
僕自身の子ども達との関わり、保育観、教育観の基本姿勢は、
こういう考えをもっているのですが、
しかし、それでも
「自由に」
「やりたいように」
というのは、丁寧に扱わなればいけない感覚とも考えています。
色々な子ども達の遊びや生活を見ていると思います。
子どもの意思に寄り添う。
子どものやりたいようにする。
たしかに、それが理想ではあるけれど、
そういう大人の関わりが本当に子どもにとってプラスにはたらくかどうかは、
それぞれの環境、状況によって変わってくるのでしょう。
極端な例で考えてみると、
例えばある一人の子の、
人生の中で出会ってきた遊び体験の唯一が、
TVゲーム
だったとします。
面白いことをTVゲームしか知らないということです。
そうなると、
そもそも他の選択肢を持っていないのだから、
「自由に遊んでいい。」
といわれても、TVゲームしかでてこないのは当然です。
これは、この子の自由を守ることといえるのでしょうか。
様々な出会いがあり、
経験があり、
その上で、自分の好きや嫌い、趣味趣向が一つずつ増えていき、
価値観が作られ、
だからこそ、
自由も生まれるのではないかと、僕は思います。
100種類の「面白い」を経験した子が
その上で、「自由」にTVゲームを選ぶのと、
TVゲームの面白さしか知らない子が
「自由」として、TVゲームをやるのは、全然意味が違う。
後者は一見自由のようでいて、
実は不自由な中にいるのではないかと思います。
(もちろん中には、TVゲームに出会えただけで、将来が決まった
なんていうのもあるのかもしれないけれど。それは本当に稀なことで。)
子ども達の自由は、
たくさんの出会い
あってこそなのでしょう。
人との出会い。
モノとの出会い。
コトとの出会い。
そうした様々な出会いの環境をつくるのは、もちろん大人。
(かつては、大人がわざわざ環境をつくらないことが(無自覚)、結果的に子どもは自らの環境を得るということになっていたのでしょうが、人気ゲームやアニメなど市場ベースの環境をすでに大人が作っている今では、どうしても偏っているので。バランスを整えるという意味でも大人の役割はあるのではないかと思います。)
そのことを、教育、保育とよぶのだと思います。
良き出会いがありますように。
僕も、楽しい出会いの一つとなれるよう、がんばります。