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DONUT WORKSHOP REPORT

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「集中についての誤解」

集中する時間の長さが集中力ではない
教育や保育の現場に関わっていると、
「子どもの集中力を育てる。」
という言い方を聞くことは少なくありません。
また、より小さな子どものほうが、集中力が少ないと思われがちです。

しかし、これって「集中」を誤解して捉えているような気がします。

たしかに集中している「時間」というのは年齢が上がっていくほど長くなる傾向はあるでしょう。でも、その時間の長さというのは、集中力のあるなしとは違うように思います。今日はそのことについて。


集中の中身
そもそも、集中とはどういう状態なのか。
例えば子どもが集中して絵を描いているところを思い浮かべて考えてみます。

集中して絵を描いている。
それは言い換えれば、他のことに興味や関心がいかず、それに専念している状態ということでしょう。

では、なぜ他のことに興味がいかないのか。
それは他に興味がいかないくらい、絵を描いているのが面白いからです。

ではなぜ面白いのか。
理由は人によって違うでしょうが、いくつかあげてみると、

筆の感触が良くて、いくらやっても飽きないほどに面白い。
自分の思ったことを絵にできることが面白い。
思ったように描けなくて、でも描くほどイメージに近づいていくのが面白い。
一つ何かを描いたら、そこから新たに描きたいアイデアが浮かんできて、その想像の広がりが面白い。
などがあると思います。

具体的にいうと例えば、一つのりんご絵を描いたあと、
他の果物も浮かんで、隣にみかん、いちご、という風に描いていく。
すると、今度はその並んでいる様子がお店屋さんに見えて、看板をかいて果物屋さんにする。

あるいは、一つのりんごを描いたあと、
もっと自分の納得のいくりんごが描きたいと思ったり、筆の感触をもっと楽しみたいと思って、さらに二個目のりんごを描く。

あるいは、一つのりんごを描いたあと、
それをはさみで切って、お友達にあげる。そしてまた新しいりんごを描いて、切って、別の友達にあげる、という展開。

こんな風に想像と表現がひろがって、面白さが継続しているときは、
集中の状態は続いているといえるでしょう。
(多くの人が、年齢が上がるにつれ集中する時間が長くなるのも、知識や経験が増え、面白さを広げる素材が多いということで考えると、しっくりきます。)

反対にいえば、
集中していない状態というのは、
=他に興味がいったり、飽きてしまった状態、
=面白いと思えない状態ということです。

では、面白く思えないのはなぜか。
これには大きくわけて三つあるように思います。

一つ目は単純に、その人の好みに合わなかったときです。
好みに合わなくて、面白いと思えなければ、もちろん集中なんてできません。

もう一つも単純で、疲れているときというのもあると思います。
どんなに面白くても、疲れれば集中が切れるのも自然なことです。

この二つは特に問題はないですよね。
(それでも無理をしてやっている(親や先生に怒られたくないといった理由で)としたら
その力は、集中する力ではなく、自分のやりたくない気持ちをおさえて、我慢する力といえるでしょう。)

そして、今回ポイントにしたいのが、最後の一つです。
それは面白いときの理由の反対。

面白さを、さらに自分で工夫を見つけて掘り下げたり、そこから新たな展開を想像できなかったからです。

では想像できない理由はなぜか。
これには二つあると考えます。

一つは、新しい想像や工夫のアイデアを生み出す源となる経験や知識といった引き出しが少ないから。
もう一つは、自分の判断で勝手に発展させてはいけないと思いこんでいるから。

という二つです。
なので、このような場面での大人の関わりを考えると、
前者の場合は、
近くにいる大人(親や保育士など)がほんの少し発展のきっかけを提案したり、
一緒にさらなる想像を膨らませたり、
あるいは他の友達のアイデアから刺激を受けることで、
その子の面白さは続いていくように思います。

後者の場合は、
普段の行動・活動で制止ばかりされていると、アイデアは浮かんでいても、「それを勝手にやったら怒られてしまうかも」と躊躇しているときがありますので、
まずは「思い浮かんだら、やってもいいんだ。(否定されないんだ)」という安心の関係を作ることが、結果的に、その子の活動の展開につながっていくように思います。

これが、僕が子ども達と関わってきて考える、「集中」の中身です。
どうでしょうか。
ここまで整理すると、子ども達が集中しない状態というのは、集中力がないからではなく、別に理由があるということが見てもらえるのではないかと思います。


集中しないことと集中力がないことは違う
今回、僕が集中について整理することで、何を伝えたかったのかというと、

「集中しない」というのは集中力がないからではない

ということです。
子どもだから集中力がないわけでなく、
その都度一人一人自分の今の育ち(知識や経験)の素直なリアクションとして、
集中したり、しなかったりしているだけなんだと思います。

そのことを
「小さいから集中する力が足りない」
と誤解して関わろうとすると、そこで育てているのは、集中の感覚とはほど遠い、
たとえ自分がつまらなくても我慢してこなす、忍耐力のように思います。

集中しない子に対する、保育士や教師の理想の関わりはきっとそういうことではありません。先ほど書いたように、

集中しない子に対して、その子の正直な反応を受け止め、
その子が自ら活動を工夫して発展させていける土台として、
今後どんなきっかけや、経験、環境を提案していけるかということを考える視点が大切なのだと思います。

子ども達の様子に対して、
「集中力が育つ・育っていない」という大雑把な視点で、自分たちの環境づくりのいたらなさを責任転嫁していることってないでしょうか。


主体性をもたなくなるのはなぜか
前回のテーマであった「主体性」。
小さな頃は誰もがもっているこの誠実な態度が、
いつ、どうのように薄まっていくのだろうということを考えていたら、
今回とりあげた教育・保育現場でもたれている「集中の誤解」ということも、つながっているような気がしました。

子ども達は集中力を持っています。

(以前このブログでも、一時間半ひたすら絵の具で遊び続けていた2歳の女の子を紹介しましたので、よかったらこちら「子どもたちの虚像と実像」もどうぞ。)
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by doughnut-official | 2014-01-16 17:39 | コラム・エッセイ | Comments(0)
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