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DONUT WORKSHOP REPORT

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コラム「子どものものさし」

子どものものさし

子どもたちとワークショップをしていると、
「ところどころ矛盾があったり、つじつまはあわないけれど、妙に納得してしまう。」
という作品によく出会います。

先日ご紹介した「夢の町をかこう」を幼稚園でやったときもそうでした。

「みんなが町にあったら良いなぁと思うものを自由に描いて町にしよう!」
説明はサラリとすませてワークショップ開始。
子どもたちは早速描き始めました。

しばらくすると、周りの友だちがお家やお店といった建物や乗り物などの絵を描いている中、一人だけ一生懸命おたまじゃくしのような何かをかいている子がいました。
時間が進むにつれて更地だった大きな紙には家が何件もたち、公園ができたり、道が通ったり、だんだんと町らしくなっていくキャンバス。そのオタマジャクシも町中に広がっていきます。

僕は二つかさなったオタマジャクシを見つけたところで、
ハッと気づいて、
「ねぇねぇ。これなにかいてるの?」
ときいたら

「町に音楽があったら素敵でしょ。」

と一言。
オタマジャクシの正体は「音楽」だったのです。

f0148974_12465125.jpg5歳の彼女は「町に素敵なもの」というテーマから、音楽を思い浮かべて、それを音符であらわしたんです。
彼女の中では「町」のイメージが自分の生活とちゃんとリンクしていて、
さらには自分が5年間生きてきた中で心地良いモノ・コトというのが感覚的にわかっているってことなんでしょう。

町に音楽があったら素敵。生活に音楽があったら素敵。
今や常識となった携帯音楽機器も、はじまりはこんな単純なことだったかもしれません。

こうしてみていると、
子どもたちが捉えるモノ・コトの感覚の基準というのは知識や常識の枠組みに全くおさまっていません。 
もちろんその理由の一つには、そもそも子どもたちが「知らない」ということもあるでしょう。
でもそれ以上にこの
「つじつまが合わないのに説得力がある」というのは
子どもの価値基準が生命として「生きる」ことへの快・不快を優先しているからなのだと思います。

経験や常識的に見ればつじつまがあわないけれど、命の感覚としてはつじつまがあう。

人の成長は、感情や行動は個人的な快・不快からはじまって、だんだんと集団の中で社会化していくもので
、それは自然なことだと思います。

しかし「個人」と「社会」の均衡にどこかアンバランスを感じる今、
個人的な感覚優先の子どもの姿が大人に気づかせてくれることもたくさんあるように思います。
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by doughnut-official | 2010-05-12 12:49 | コラム・エッセイ | Comments(0)
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