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「こどもっていろいろわかってる」と思う話

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子育て日記「幼稚園デビュー」

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息子が無認可の園に行き始めました。
来年度からの入園を呑気に考えていたのですが、引っ越しなどもあり、幼稚園や保育園はなかなか厳しい状況。

いっそ自主保育をはじめてしまおうか、と考えもしたのですが、、巡り会うものですね。
なんとも素敵な園に出会いました。

はじめての体験の日。
駐車場(原っぱ)に車をとめ、トンネルみたいな木々の中を抜けていくと、木漏れ日の中にその園はありました。

おはようございます。
挨拶してくれる園児のお母さんたち。
その声の柔らかさだけで、もう伝わってくるものがあります。
聞こえてくるのは木の葉が触れ合う音と、鳥の声と、子どもたちの遊ぶ声。
先生の大きな声は聞こえてきません。その代わりに温かな眼差し。

朝の会は、わらべうたにのせて出欠を確認したあと、絵本を読んで、詩を一つよみました。
詩は、谷川俊太郎さんの『めのまどあけろ』を元にして、その都度聞こえてくる音や見たもので先生とこどもたちの即興。
これでおしまい。

あとは三々五々に遊び、お昼は好きなタイミング、好きなところでお弁当。
たっぷり遊んだあと、帰りの会。絵本を読んで、わらべうたを歌って、また明日。
何か特別なプログラムや遊具があるわけではありません。
でも、無限に遊べる自然があって、子どもたちがイキイキと遊ぶ姿があって、その子どもたちを想う温かな大人たちがいる。

なんて豊かなんだろう。
その光景に何度も目頭が熱くなる親バカ父ちゃんでした。
これからよろしくお願いします。

# by doughnut-official | 2021-11-18 20:49 | コラム・エッセイ

子育て日記「教授と助手」

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今夜の遊びもとい実験は、
「ミニカーがどれくらいのスピードで坂を降りるか。」
でした。
教授の
「よーし、いくぞー!」
の声にあわせて、せーので手を離します。
タイミングを逃すと、ちゃんとしてー
と時々突っ込まれつつ。
助手はなるべく教授の段取りの邪魔にならないよう、サポートに徹します。

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ガガー
「うん!あずさ速いね!」
ゴロゴロー
「はやぶさも速いね!」
シュルシュルー
「トラックも速いね!」

、、どれも早いということがわかり、無事に実験は成功(?)しました。

と、そういえば、この実験。
むむ。
これはかの有名な万有引力の法則では?
まさか、ニュートンの存在は知らないだろうに。
息子は、天才かもしれません。笑

なんて、冗談半分、本気半分で
こどもの遊びは研究に通じるものがあるなぁと思います。
そう考えると、親子の遊びの関係も、研究でいう教授と助手の関係に通じるものがあるのかもしれません。

知識と経験は大人のほうが豊富な分、先回りして色々言いたくなる気持ちもなくはないですが、
偉大なる発見というのは、えてして知識と経験の枠の外にあるものですから。
大発見を楽しみに、僕はこの教授についていこうと思うのでした。

# by doughnut-official | 2021-09-07 16:46 | コラム・エッセイ

子育て日記「散歩でみえる世界」

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散歩も好きだけど、三輪車も好きな息子。
今日はそっちの気分よと
帽子をかぶり、かばんに水筒をいれ、準備万端。
レッツポタリング。
ひょこひょこひょこと地面をけって進む。
しばらく行くと、草とりをしているお姉さんに遭遇。
「あら、お散歩いいねぇ」
「いまね、三輪車でいってるんだー。」
「そう。いいなぁ。いってらっしゃい。」
「いってきまーす。」
手を振って、また進む。
今度は路面店の軒下にフクロウの置物を発見。
自分から前にいってフクロウ(置物)に話しかける。
「いまね、三輪車こいでるんだー」
ホウホウ(と聞こえる気がする)
日影がちょうどよく、そこで水筒の水を飲むことに。
自分でひと口飲んだあと、
「はい、どうぞ。」
フクロウさんにも少し飲ませてあげる(つもり)
休憩終了。
また進む。
ひょこひょこ ひょこひょこ
着いた先は、本屋さん。
自転車のマークに三輪車を停める。
中に入ると、まずは電車雑誌のコーナーを立ち読み、そのあと気になる絵本はないかとチェック。
ひとしきり見て今回は欲しい本はなかったらしく、父が一冊小説を購入。
店をでて、またひょこひょこひょこ。
今度は道をかえて公園で、アスレチックと滑り台。
たっぷり遊んで帰路についた。
三輪車で行ける世界。
そこで出会う何気ないヒト・モノ・コト。
ちょっと飛躍しすぎかもしれませんが、小さなこどもとの散歩には、街についてあらためて考えるヒントがある気がします。
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# by doughnut-official | 2021-08-06 16:48 | コラム・エッセイ

子育て日記「絵本を読んだ後の会話」

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夕飯の前に親子でライオンのでてくる絵本を読みました。
読み終えて食卓につくと、いきなり息子が言います。
「ライオンさんもそろそろご飯たべるかねぇ。」
僕は一瞬
「ん?ライオンさん?」
考えてから、あぁさっきのライオンのことかと理解。

息子は絵本にでてきたライオンの「今」を想像しての話をするのでした。

そうか、、たしかに。

絵本に描かれているのは、あくまでこのライオンの人生(人じゃないけど)のワンシーンであって。ページを閉じた後も、きっとライオンの生活は続いているんですもんね。

うーむ。
それは、そうなのですが。

そんな素敵な読み方・楽しみ方を自然にやるのですね。

あなたは。(親バカ)

いやぁ、こどもの想像力はすごいですね。
一瞬にして、絵本の世界と自分の世界をつなげてしまうんだから。
父ちゃんもそんな風に楽しんでもらえる新作づくり、がんばります。

# by doughnut-official | 2021-07-30 15:43 | コラム・エッセイ

【子どもを大人化させることの違和感】

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今日の話は、もしかしたら保育や教育に熱心な人の中にはちょっとイラッとする人もいるかもしれません。
ですがこの話は否定ではなくて、ここ数年の保育のムーブメントに対して、手放しで礼賛するのではなく、色々な視点でそれぞれがじっくり考える必要があるのでは?という話ですので。どうぞ、和やかに読んでいただければと思います。
ということで、本題です。

子どもってすごいなぁと思う一方で、最近、保育や幼児教育の現場では、
「こどもはすごい」「こどもと対等」という大義のもと、「子どもの大人化」がもてはやされるムードがあるように感じています。
例えば、子どもたちが自分たちで対話や議論をして解決するといった実践が評判だったりします。(クラスでケンカがおきたときに、子ども同士で、何が原因かを話しあって解決に向かうなど)
もちろん、それが適する場面もあるでしょう。
でもそれが方針としてパッケージされていることに僕は違和感があります。
なぜなら、人間同士、状況によっても変わるやりとりを、自分たちの方針として価値づけたら、最初は自然に生まれていたことでも、いつからかそれを自分たちの特色として、こどもに期待してしまう可能性があるからです。(それも無自覚に。)
そして、解決することを求めている大人の存在に、子どもたちは気づく人たちだと思うからです。
その上で気づいていないように振る舞える子だっているでしょうし、期待に応えている自分に酔ってる子だっているでしょう。または、その自覚なく、純粋に応えようとしてる子もいるんだと思います。
本人ではないからあくまで想像することしかできませんが。
でも、皆さんも自分が小さい頃にそういう経験ってありませんか。
僕はあります。

また、現在2歳の息子とやりとりしていても、あ、いまこっちの気持ちを察してくれたな。僕の好みや期待が表情やリアクションにですぎたか。と心の中で反省する時もあります。

議論を求めたら子ども達はできるでしょう。
でもそれをできることが、この時期の育ちなのかは、じっくり考えるべきだと思います。
議論しない時や直接解決しない時だって、それも大切な時間だと思います。
例えば、友達と互いの思いがぶつかってケンカになる。
言葉も手も出て、相手が泣いて、やり返されて、こっちも泣いて。
体が痛い、心も痛い。
すぐにごめんなさいはしたくない。
他の友達に代弁なんかしてもらいたくないし、
むしろ自分たちのケンカに他人が入ってこないでほしい。
だからそのまま一日ふてくされて時間が過ぎていく。
そうして家に帰って、夜寝る前に、一人思い出す。
明日もあの子と遊びたいなと、後悔しながら眠りにつく。
次の日、ちょっと緊張しながら話しかけると向こうも同じ気持ちで。
だから目をあわせただけで、それが通じ合って。
昨日のケンカがなかったかのように、いつもの遊びがはじまる。
それは「一日経って忘れた」からじゃない。
そういう感情の揺らぎや育ちが、目には見えにくいけどたくさんあります。
時間もかかります。
そういう日々を精一杯過ごしている子どもたちを信じて、静かに受け止めることが、子どもたちの力を尊重することなのではないのかと思います。
だから、最初に例にあげた議論や解決も、それ自体が良い実践というよりも、
あくまで色々な育ちのプロセスの一つとして、時には向き合って話をすることもあれば、クラスのみんなで話しあって自分たちで解決を試みることもある。
という質の話なんだと思います。
なので、これは事例そのものを否定しているのではなく、ムードへの違和感の話です。
繰り返しになりますが、
子どもって、親や先生が求めることに応えてくれる人たちだと思います。
しかも
「求める」というのは言葉で直接求めることじゃなくて、
こっちがほんの少しいつもよりも嬉しそうな顔だったり、声がはずんていたり、写真を撮る枚数が多かったり、作品が飾られたり、
そういう微かな空気にはみ出る「期待」に応えるんだと思います。
ほんとうに、子どもを甘く見ちゃいけません。
だから、子どもたちの天然の感性と思考に大人は静かに感動して、そのことをなるべく子ども達が意識しないで、自分の、自分たちの好奇心・探究心に専念できるように。肝に銘じておかないとなぁと思います。
子どもを尊重し対等に向き合うことは、子どもを幼稚化させることでも大人化させることでもない。
今日の話は賛否色々あるでしょうが。色々な価値観や視点があるから、より保育観は広く深くなるということで。

現場の皆さん、それぞれがんばりましょう。

# by doughnut-official | 2021-06-24 10:54 | コラム・エッセイ